これは「奇跡」についての話である。
が、実際のところ「奇跡」とはどのようなものなのか?
私たちの常識で推し量れないことを体験・経験してしまったとき、
人はそれを「奇跡」と呼ぶしかないのだろう。
そして、同時に、これは「ココロ」の問題でもある。
「信じる」ということを前川知大は毎回いろんな形で提示する。
荒唐無稽とも思えることが、実はありうるのではないか?
と思うようになる。
ある「奇跡」を目の前にすると、さらにその思いを強くすることとなる。
(昨年のイキウメの「獣の柱」などもまさに。)
その思いが「信じる」ということにつながる。
「信じる」ということは何度も言うが「ココロ」の問題でもある。
この問題を突き詰めていくと「宗教とは?」ということにぶち当たる。
劇中で神か?というくだりがある。
キリストの誕生にも似た「奇跡」を起こす人の存在。
その人が目の前にいる。
その「奇跡」が起きたことを信じる人は、
目の前の人を「神の生まれ変わり」と思っても何ら不思議ではない。
「キリスト教」をはじめとする宗教のいくつかは、そのようにして始まったのではないだろうか?
ある病院の前の交差点で奇妙な事故が起こる。
見通しの悪い横断歩道で赤信号になってしまったところに
歩行者が帽子を拾いに行こうとした。
その男(大窪人衛)はスマホを見ていたので信号に気づいていない。
そこに、突っ込んで来た車。夫婦が乗っており、夫(新倉ケンタ)が運転していた。
男はハンドルを切ってよけようとするが間に合わない。
そのとき。その男の前に透明な固い壁ができたかのように車だけが大破する。
助手席の妻はフロントガラスを突き破り意識不明の重体で向かいの病院に。
その事件を解明すべく、
保険会社の係りの人(岩本幸子)が関係者を集めて
あの事故の時の話を聴くところからこの舞台は始まる。
実際にそれを見た人の証言、観なかったけどその場に居合わせた人などの証言が続く。
その事実が「ドミノ」が原因である、
と突拍子もないことを言い出す男(安井順平)。
塾講師をしている、その男(大窪)の兄(浜田信也)が「ドミノ」を持っていると
安井順平は語りだす。
「ドミノ」の強い力が、その男と車の間に透明な強い壁をこしらえたと。
あまりの荒唐無稽さに、最初は周囲の人たちが驚くのだが、
前川知大の筆はぐいぐいとそれがまさにそこにあるかのように進めていく。
イキウメはそこに魅力がある。
小さなことを積み重ねていき本当にそれがあることなんじゃないか?
と観客をも巻き込んでいく。
これこそ、とても演劇的な行為である。
その場に居合わせたすべての人が共同幻想を持つ。
それが「信じる」ということなのかも知れない。
奇妙な空気が蔓延すると、その奇妙さが実は普通のことなんじゃないか?と思うようになる。
人間にはそうしたところがある。
周囲の環境に適応していく性質。
それを前川さんはこの舞台で可視化する。
誰にでもある、その性質を指摘され
見ている私たちも「はっ」とするのでは?
そういう、独特のテイストを持った傑作舞台。
前川知大の進撃は、高いレベルで続いている。
6月15日まで。
