1995年1月17日。僕は、撮影の立会いのために
車で横浜スーパーファクトリーという撮影スタジオに向かっていた。
当時、携帯電話は高価でまだ持っていなかった。
ラジオから阪神間が大きな地震に見舞われたとラジオのニュースが伝えていた。
午前7時頃だったように思う。
会社に立ちよって、大阪の実家に戻っていた妻と、
同じく大阪に住んでいる僕の母親の実家に電話をかけた。
何度かかけるとつながった。
高槻に住んでいる母親と千里中央に実家のある妻は、
ものすごく揺れた、棚からものがたくさん落ちたが無事であることが確認できた。
しばらくすると電話が、全くつながらない状態になった。
僕の、学生時代の友人や知人たちが多く阪神間に住み、
多くの方々が被災された。
ある友人は、その日、伊丹空港から、タクシーを乗り継ぎ、神戸の実家に何とかたどりついた。
この舞台は、1995年1月17日午前5時46分52秒から始まる。
突然の大音量とともに舞台が暗転する。
列車は緊急停止し、その後、震災現場で起きた、様々なエピソードが断片的に綴られる。
ある家族を軸にはするのだが、それは話をわかりやすくする方便であり、
様々なエピソードが迫真に伝わり見ている者たちは、愕然とする。
瓦礫から人を助け出す。裸足で逃げ出し足から出血する。
ガスが漏れ出し、火気に注意をせよ!と人々が叫ぶ。
車が大きな道路にあふれ出し数珠繋ぎになり大渋滞。
遺体を搬送するための車両がなく、自家用車に「遺体搬送中」として搬送する。
(法律上、勝手に遺体を動かしてはならないそうだ。知らなかった!)
警察官や行政官、医師や看護士たちが自分たちの家や家族も被災しているのに、
被災者たちに責められ、
「すいません」としか言えない。
彼らの、処理能力以上の人たちが大変な目にあっている。
ある医師は一晩で3000人の縫合を行なった。
それらの事実の強さに、さらに驚く!
岡本貴也の演出は淀みなく、テンポがある。
時々、熱すぎる感じもするが、この舞台では、自然と受け容れることが出来る。
高石ともやの劇中歌もいい。
役者たちの年齢が岡本たちの世代が中心なのだろうか?
20代から30代だった。
本当は、中年からお年寄り、子供たちがいると
さらに興味深いものに出来たのではないだろうか?
文学座や青年座などでやっても意義のある舞台になるのではないだろうか?
被災者と行政職員、被災者とボランティアの方々がお互いのことを想い、
いろいろなことが出来ないという無念をお互いに抱えつつ、
人間の尊厳をギリギリで保ちながら、礼をする。
頭を深々と下げて、お互いに対してお礼をする行為が胸に沁みる。
カーテンコールで出演者たちが、また、僕たちに向かって深々と頭を下げる。
頭を下げなければいけないのは、僕たちの方ですと思いながら、精一杯の拍手をする。
演劇にしか出来ない伝え方が、きっとあることを確信する。
チラシにこう書かれている。
「新聞やテレビでは伝わらない。けれど、演劇にはそれが出来る。」