大きな資本のプロデュース公演?
バードランドミュージックエンタテイメント・アクロスエンタテイメント・ぴあが企画・製作を行っている。
プロデューサー:はやしきよし、藤崎淳、中﨑祐介。
原作:北尾トロ(@文春文庫)裁判の傍聴記が記されたエッセイらしい。
その原作を基に2012年に本作の上演が行われたらしい。
そして、これはその2016年版である。
上演用脚本と演出は塩田泰造(大人の麦茶)。
塩田さんは、本作に取り組む前に実際に裁判の傍聴に何度かいかれたそうである。
裁判をするということは、ある種、様々な事実を再度さらけだし検証するということ。
裁判をするということはそれに向き合うということであり、それは生半可なことではない。
傍聴をするのにもそれなりのエネルギーが必要なのではないだろうか?
裁判の記録や証言から様々な関係者の人間関係が見えてくる。
裁判を扱った物語は多い、裁判官を描いた「家栽の人」
検察官を描いた「HERO」そして弁護士を描いた「リーガルハイ」など
すぐにいくつかの代表作が思い出される。
そして、本作は、傍聴席で傍聴する人たちを描くという新たな裁判ものである。
様々な描き方がある。
裁判という場は人間関係の縮図でもある。
本作を見て本当にそう思った。
本作のセリフの中に「事件が起きた時の事実を白日の下にさらす」というのがあったが、
それは行われた事実だけではなく、
その事件の背景には人間の感情がある。
人間は感情の生き物であるから、その感情を考えながら
判決などを考えていかなければならない!?
もし裁判員制度などでこのようなことが自分に降りかかってきたら
果たして正しい判断ができるだろうか?と思った。
裁判制度とは、法制度の国家の中でその法に触れたことに対しての罰を与える制度である。
ということは理屈で考えるとわかるのだが、
人間は感情がその上にあるからこそ合理性だけで図れない
「何か」がそこに表出するのである。
その人間の持つ根源的なものを描こうと塩田泰造は
四苦八苦しながら努力していることが伝わってきた。
単純に、罪を犯した人だけの問題なのか?
真実はどこにあるのか?そもそも真実とはなんだ?
その真実を冷静に評価するということが裁判で裁くという行為なのか?
いろんな自己矛盾も含めて私たちが生きている世界のことを
考えさせられるものだった。
いくつかの裁判の傍聴が並行して描かれ、
そしてそれらの事例が上記で書いてきたようなことを想起させる。
俳優たちの演技のレベルの差が大きく、
そうでないと思われる演技に関してはこれからさらなる伸びしろを期待したい。
脚本がよくできているだけに俳優たちの表現がさらに進化すると
さらに多くの人を惹きつける作品になるのでは?と
思うのだが、どうですか?裁判長?
23日まで。

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