劇場に入ったら何と後ろ半分が空席!B席とZ席は満席!
ちなみにA席は6480円、B席は3240円!この価格差はいかがなものか?
そして、後ろが空いているのであれば値段を下げてでも
お客様を入れるようにしたらいいのに。
制作者や俳優たちは少なくともそう思っているのではないだろうか?
安部公房の1962年の戯曲。戦争責任をどのように精算していくのか?
そして武器の輸出などに加担してもいいのだろうか?
などという問題がこの戯曲の中で取り上げられている。
舞台はある豪華な館の広間(美術は乗峯雅寛)下手と上手に鉄の扉があり
真ん中に井戸のような四角く数十センチ上がった場所があり
そこには地下?に続いていく扉がある。
地下室は鍵がかけられており男(山西淳)の父親(辻萬長)がそこに監禁されている。
父親は以前の戦争(ここでは太平洋戦争のことだろう)の体験者であり
その記憶をいまだに引きずっている。
息子はこの父親をキチガイ病院に入れようと考えている。
父親が戦争の呪縛から逃れられないでいるのだ。
黒澤明の放射能に怖れおののく男を主人公にした映画「生きものの記録」(1955年)を思い出す。
平和憲法が国民の中で強く残っていた時代。
息子は朝鮮戦争特需で財をなし、その後武器輸出などに絡む仕事をするかしないかで悩んでいる。
妻(椿真由美)はそんなことを気にせずに金儲けをしたいと思う。
二人の夫婦間に亀裂が走る。男に頼まれて従僕(たかお鷹)はこの屋敷に
ストリップ小屋で働いている踊り子を連れてくる(松岡依都美)。
踊り子は男の妹の役を演じるために呼ばれてきたのである。
そして、この5人が奇妙な関係を作り始める。
安部公房らしい不可解なカフカ的とでもいうべき物語構造の中で
懸命に自分の立場の中で生きようとする人たち。
現在、武器輸出や海外派兵が平気で行われるようになった時代となり
さらに、38度線以北の緊張感が増している。
ポピュリズムが台頭し、自国の利益だけを守るようにな流れが主流になりつつある現在。
これって、この舞台で描かれた時代よりも後退してしまっているのではないか?
と危機感を抱いた。
戦争責任という言葉が、戦後は終わったということで無理やり終わらせ、
誰も責任を取らないままで次の時代に向かっている。
自国の利益最優先の原則は加速し、いまだに責任を取らないで済まされる仕組みを維持したまま。
この国は責任の範囲を限定しない、そして同じことを繰り返す。
みんなで決めたことというのは、誰も責任を取らないでいいということと同じ意味なのかもしれない。
そのようにして私たち日本人は生きて来たのだが、
少なくとも安部公房はこの作品の中で戦争責任ということについて発言する。
そんなことを言えるのが芸術家だけになってしまう世界ならば
そんなに寂しいことはない!
ちなみに新国立劇場の運営の責任は誰にあるのでしょうか?
後ろ半分が空席なことを何とかできないものなのか?
終演後、劇場内はあたたかなカーテンコールに包まれているのだが…。




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