1997年に読売文学賞を受賞したらしい。
国際フォーラムのこけら落とし公演のために書き下ろした作品。
国際フォーラムが出来て、まだ10年しか経っていないのかと思う。
10年という歳月の長さを再認識する。
そういえば同じ頃、初台にも「新国立劇場」が出来た。
僕が舞台を再度真面目に見始めた頃に重なる。
マキノノゾミ脚本。
昨年、彼が演出した、テレンス・ラティガンの
「セパレート・テーブルズ」は本当に良かった。
僕のココロの深いところに確実に届いた。
彼の脚本での俳優座プロデュース公演「高きかのもの」も名作だった。
しかしながら劇団M.O.Pの舞台を僕は見ていない。秋の公演には必ず行こう。
数少ないマキノ作品を見て思うことは、強烈な倫理観が底に流れているということ。
人が生きていく上での矜持といったものを強く感じさせてくれる。
ここが、僕が一番マキノノゾミの作品を共感するところかも知れない。
もちろん喜劇的な部分は随所にあり、お笑いを描こうとしているのは理解できる。
ウエルメイドなコメディと言ってしまえばそれで終わってしまうのかもしれない。
しかし実際のところ、お笑いの部分は僕にとってはどうでもいい。
お笑いだけをとってみたら、もっともっと面白い作家や演出家がいる。
同じことは永井愛や、井上ひさしにも感じる。でも僕はそれでいいと思っている。
彼らは笑いを中心にして楽しく明るく、何らかのことを感じ取ってくれればという。
しかしながら爆発的な笑いは多分に演出的なところが重要ではないかと僕は思うのだ。
少ないながら落語などを見始めて、さらに強く感ずることとなった。
笑いとは演者と演者が作り出す、間と空間が全て。
そこには余計なものは何もいらない。
極端なことを言えば言葉さえも。
言葉の流れで笑いを作り出すということは高度なテクニックがあれば出来る。
しかし、見ている方もそれなりの論理脳を働かせて笑うことになる。
しかし、みんな経験していることだろうが、腹の底から可笑しい時は、
全身の感覚だけで身体の感じるままにその可笑しさを受け取ることとなる。
この舞台は、倫理観と戦うものたちの舞台だった。
特徴的なのは「土下座」するという行為が頻繁に登場すること。
もちろん、「土下座」して謝るということは、
よっぽど切羽詰ったことがあってのことだろう。
しかし、必死に謝罪し、赦しを乞うことによって、
その人間が変わろうとしようとしていること、
また謝罪された人間が必死で赦しを与えようとすることが生まれる。
そのことがらを目の前に突きつけられ茫然とする。
そこから新しい気持ちや、理解が生まれる。
そのことが強く印象に残る舞台だった。