ギリシア哲学や幾何学などが生まれた古代ギリシアのアテネ。
ここはオリンピック発祥の地でもある。
彼らは奴隷制度の上であくせく働かなくてもいい都市国家の制度を作り、
アテネの国民たちは日がな一日議論をしたり考え事をしたりして
過ごしていたらしい。
しかもそれは男性が中心で女性と実際に働いている奴隷は蚊帳の外であったと、
終演後、シアターコモンズをお薦めしてくれたTさんに伺った。
彼女は学習院大学の社会人講座に通っておられ、
そこでギリシアの演劇に関してかなり勉強されたらしく、
上記の事実を聴いて本作の理解が深まった。
こうして対話を通じてある種の作品が触媒となりいろんなことが開かれていく、
というのが演劇を始めとする芸術の大きな役割の一つではないだろうか?
シアターコモンズの試みはまさにそれ。
アテネの都市国家では年に1度、その高等遊民的な市民である男たちが
「ディオニュソス劇場」に集まり、ギリシア演劇を見るということが行われたらしい。
1万人も入る劇場!
そこで本公演でも上演されたような作品の公演が朝から晩まで行われていたらしい。
ギリシア演劇といえば「ギリシア悲劇」が有名だが
Tさんに伺うと「ギリシア喜劇」というのもあるらしい。
しかし、「喜劇」は全然面白くないとおっしゃっていた。
喜劇はやはりその時代に合わせた風刺などを描くので
時代が変わるとその面白さが変化するのではとのTさんの分析に納得した。
漫才や落語などを見てもまさに!
時代に合わせて変化させていくことは
伝統芸能を継続していく秘訣なのだろう。
逆に悲劇はそれに比べて普遍性が強いので
現在でも多くの作品が上演されていると聞き。なーるほどな!と
思いながら本作の上演を思い出しながら反芻した。
(ここで「牛」の顔のアップが挿入!・・・・。)
高い下駄のようなものを履いてたくさんの衣装を
身体に巻き付けた俳優がギリシア悲劇のアイスキュロス作の「ペルシア人」を語る。
とは言え、その前に本作の説明をしたりして地の文も彼が語るという面白い設定。
そういえば、落語はそういう芸能なので、落語のような
語りのものというといいのかな?みたいな。
俳優はフランス人なのでフランス語で語る。
観客は同時通訳レシーバーを受け取り、同時通訳者(平野暁人)の語りを同時に聴く。
この平野さんの語りがむちゃ面白い。
普通の今どきの若者言葉的な会話が地の文では語られ、
ギリシア悲劇を語る部分は淡々と感情を入れずに語る。
感情表現は目の前の俳優が演じているのでわかるでしょ!というスタイル。
これがまた新たな効果を出していたのではないか?
(「文楽」とは逆の=感情の見えない人形と感情を出す義太夫の対比)
実は、本作の最初の方は温かく暗い場所だったので
でしばしまどろんでしまったのだが、
ペルシア人が激しい戦争でギリシアに負けて退散する場面などは、
先日読んだ塩野七生の本なども髣髴とさせる物語世界が展開する。
古代ギリシアのアテネ市民たちは
この悲劇をどのように感じて見ていたのだろうか?
推測するに決してこれはアテネ市民たちの戦意高揚ではない。
その真逆の効果を狙って上演されたのではないだろうか?
その悲劇を自分たちに置き換え、まさに自分事化することによって考える。
終わってみんなが議論し対話する。
そんな催しだったのでは?
これもある種、市民に向かって「開かれた」体験をしてもらうための
都市国家としての生存戦略だったのではないだろうか?
その戦略が意図的だったのか自然発生的だったのかわからないが
人間の知恵と工夫は昔からすごいものだったということが
本公演を通して間接的に伝わってくる。
こぼれたミルクは元には戻らない。
そうなってしまう前に、まずは、死者たちに飲み物とオリーブ油を手向け、
今生きている私たちの戒めにしよう!そんなことが伝わってくる。
上演時間90分。24日まで。