私が、千葉県の市川市に住み始めて30年近くになる。
人生で一番長く住んでいる場所となった。
私が住んでいるのは行徳・妙典の界隈で
以前は塩田などがあった海沿いの場所を埋め立てた一帯である。
ちなみに地名が「塩焼」というのは過去の塩田の名残である。
江戸川を渡って北の方に行くと本八幡や市川市駅のあるエリアがある。
昔から郊外の洒落た住宅地として知られていたらしい。
都会の喧騒がなく静かで落ち着いた場所。
江戸から東の方へ旅をするときにはこの町を通って上総などの地域に出かけていったらしい。
水運の要でもあり、
現在も行徳には船が頻繁に行き来するための目印となる常夜灯が遺されている。
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/01/07/203000
本八幡などの地域はお金持ちの旦那さんが二号さんを住まわせた場所としていたらしい。
実は浅草に近く、当時は国鉄を使って一本で出かけて行ける。
今も大手町などに勤務する人が多く住んで通っている。
麻布の高台に戦前まで住んでいた永井荷風は戦後、こ
の市川は本八幡に移り住み亡くなるまで住み続ける。
本作は永井荷風の最晩年の市川の自宅のシーンから始まる。
昭和30年代前半のことである。
実は私は永井荷風のことをまったく知らなく本作を見てとても興味を持った。
裕福な家の出だった永井荷風はいつも父親に説教されて育ったらしい。
しかし、その財産のおかげで明治生まれの男が米国やフランスに遊行することが出来た。
その後荷風は「ふらんす物語」や「あめりか物語」を著す。
明治の30年代、昭和10年代と時代が前後しながら進行していく。
昭和10年代に永井が頻繁に通った女郎屋のお雪(飯野遠)とのエピソードがいい!
これを見ると永井荷風は変人と世間では思われていたらしいが、
実はとってもリベラルな思想を持った合理主義者ではなかったかと思った。
その考えが時代よりも何歩も速かっただけのことなのではないか?
永井荷風の生き方は現代人にとって本当の幸せを考えさせてくれるきっかけになる。
永井の著した日記文学の傑作「断腸亭日乗」などから多くのセリフが引用されている。
題名の「正午浅草」も日記の中に出て来る文であり、
荷風は毎日のようにお昼に浅草を訪問していた。高等遊民という言葉があったが、
まさにそうした自由な生活をし勝手気ままを貫いて
最期まで自由に生きた人だったことがわかる。
この年になると、どうやって死んでいくか?ということがリアルな問題になって来る。
そんなことを改めて考えさせてくれる。
民藝のファンの方も劇団の高齢化に伴い70歳以上の観客がとても多かったように思う。
それらの観客の方々もそれぞれ自分の死に方を考えたのではないか?
荷風を演じた85歳の水谷貞雄がその姿も含めて素晴らしい。
作・演出:吉永仁朗。何と御年89歳だそうです。
上演時間休憩挟んで2時間30分。28日まで。