『ブックカバーチャレンジ』30( book cover challenge vol.30)
30冊目は手塚治虫の「ぼくのマンガ人生」(@岩波新書)
発行は1997年。私が35歳の時。手塚さんが亡くなられたのが1989年。
昭和の終わりとともに手塚さんは60歳の生涯を終えられた。
まだまだ書きたいものがたくさんあっただろうが周囲の人に
言わせると手塚さんは人の3倍生きて仕事したということなので
実は普通の人だと180歳まで生きていたことになる、と思って
納得するようにしている。
実は本書ではなくても手塚治虫の著書なら
なんでも良かった。国立近代美術館で行われた手塚治虫展の図録は
家宝のひとつである。手塚さんは昭和3年生まれ。
戦時を経験をされ、少年時代、虫が大好きだったので
自らを「治虫」というペンネームにした。
大阪大学の医学部を出て医師免許を持ちながら漫画家として
これまでの漫画の世界を新しいスタイルのマンガに変えていった。
映画のようなストリーテリングをコマ割りとビジュアル化された吹き出しや
効果音などを駆使して効果的に表現された。
いま私たちが読んでいるストリー漫画の基礎が出来て行った。
そしてトキワ荘物語にもあるように
豊島区にある小さなアパートにその改革者であり表現者である
若者たちが続々と集まり日本のマンガ文化を変えていった。
マンガのすごいところは
企画・脚本・絵コンテ・レイアウト(=撮影)・仕上げの全工程を
ひとりで作り上げることが出来るということ。
もちろんたくさんのスタッフと一緒に作るやり方もあるのだが
神の手のような「チカラ」をマンガ家は持っている。
そうして「マンガ」は
日本が海外に向けて誇ることの出来る輸出商品のひとつになった。
手塚さんはそれだけでは収まらなかった。アニメーションへの進出。
虫プロ、というプロダクションを立ち上げ。「鉄腕アトム」の毎週放送という
アニメシリーズに果敢に挑戦していった。止め画を多用しカメラワークなども
駆使して極力作画枚数を減らすという手法を開発された。
今のデジタル時代の画像処理のプログラミングの基本みたいなところを
(映像が止まっている場所の処理の仕方みたいな)
自然と理解されていたのだろうか?
超合理的なアニメ制作スタイルではあったが、現場は修羅場が続き
当時の制作予算がTVアニメの制作の予算の基礎になってしまったという
ことも現実としてあったらしい。
並行して虫プロではアートアニメーションと呼ばれる実験的なアニメ作品を
コンスタントに作り続けていた。その作品群は海外のアニメーションの賞を
何度も受賞した。
そうして、ディズニーのアニメーションとは真逆の作業スタイルが日本のアニメーションに独特の進化を与え、それが今では世界中に配信している
ネットフリックスもがおおいに注目する
アニメ制作国となっていったのは事実。
ただし、これからアニメ制作者がもっと普通に生活できるような
ビジネススキームを構築していって欲しいと個人的には思う。
最後に私が手塚さんの晩年の仕事風景に密着した
NHKドキュメンタリーを紹介したい。
https://www.nhk.or.jp/d-garage-mov/movie/147-8.html
これだけ見れば手塚さんが三倍生きていたんだということが良くわかる。
手塚さんは仕事場に閉じこもり創作をしながら
横には常にTVが流れていた。これってコロナ禍で在宅勤務している
姿に何となく似ている。似ていない最大のことはそんなスタイルでも
人の三倍生きていないことかも知れない。
読書文化普及のため
◎毎日一冊の本の表紙をUP
#BookCoverChallenge

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