「ザ・空気3 そして彼は去った」二兎社公演44(@シアターイースト)
永井愛さんの素敵なところは自分が感じたことをストレートにおっしゃること。
その永井さんのメディアを舞台にして創作したシリーズの3回目。
メディアが世間の空気を作っていることは現実としてある。
最近はそれにSNSなどが加わって
世間の空気が一気に変化するような時代になった。
そして世間はニュースを消費し
消費する自分自身たちはその当事者ではないとして傍観する。
そのこと自体が私たちの国民性かもしれない。
忖度(そんたく)という言葉が劇中に何度も出て来る。
忖度とはこの舞台を見ると、現状を変えたくない変わりたくない
ということを意識している人たちが行うことなのではないか?
忖度することによって既得権を守り自分のポジションを守ろうとする。
その忖度がメディアに波及するとメディアの自主規制というような
言葉に転換していく。
メディアの大きな役割としてジャーナリズムがある。
本作を見て初めて知ったのだが日本では「編集権」が
ジャーナリストにあるのではなく企業にあるらしい。
企業とは資本主義社会においては利益を上げていかなければならない共同体でもある。
特に、TV業界は総務省が管轄する電波事業の免許を受けており、
ある種の大きな既得権益がそこにはある。
なので、TV局員の給与が高額なのはその既得権益に起因することもある。
となると、ジャーナリストとしての個人と既得権益者としての放送局という法人の間で
必然的な葛藤が起きていく。
もちろん例外的なこともある。
そもそもジャーナリズムは社会の権力者たちを監視して
社会のバランスを保つための役割がある。
海外のジャーナリストたちはその根本的な問題に対して真摯に向き合っている。
本作を見てそれは「編集権」が彼らにあるからなのかな?
ということが分かって来た。
森達也のドキュメンタリー映画「i-新聞記者」を見るとそれが良くわかる。
海外のメディアが日本の政治に対して取材するときに
やはり本質的な問題を見失わないように鋭いインタビューを行うという光景が映されていた。
もちろんこの映画の中に登場する東京新聞の望月記者のように
自らの信念を曲げずに沖縄問題などの本質に迫っていく
記者もいることは事実なのだが。
メディアも組織であるだけに管理職サイドや経営サイドに移行していくに従って
ジャーナリズムの精神が企業者の精神に変化していくのだろうか?
芸術家とはこれまでの価値や仕組みを破壊し新たなものを創造するものたちのことを言う。
永井愛さんはそういう意味では芸術家として今の日本って
今のメディアって何かおかしくないかい?と素直な言葉を
こうした形で私たちに伝えようとしてくれているのかも知れない。
民主主義がきちんと機能する社会を目指していたジャーナリストの佐藤B作が
権力の中枢と近い関係になっていき、そのことによる既得権益を守るために
本人の言説までもが変わっていく。
しかし人は「死」を前にすると
本当に大切なものが見えてくるのかも知れない。
これは、実は誰にでも起きえる事だと永井愛は舞台を通じて警鐘を鳴らす。
本作に登場するBSの報道番組のチーフプロデューサーの神野美鈴の
葛藤のエンディングが永井愛のある種の「絶望」にも似た想いを痛いほど伝えてくれる。
演劇の持つチカラを信じて書き上げた永井愛の渾身の一撃。
上演時間1時間45分ほど。1月31日まで。


