島林愛はいつも女の子の女の子らしいところを描く。
そのスタンスは変わらないのだが表現の仕方が実験的だった
。そんな、印象を残した舞台。
今回、客入れをしていた島林が突然前説を述べながら、
衣裳を脱ぎ始め、小学生の女の子に変容するところから
この舞台は始まった。この舞台は島林のイメージの集積である。
そのイメージが次々と変容していくところに
この舞台の不思議なところがある。現実と虚構。
少女時代と大人になった今の時代。
少女の時代のココロの叫びを島林は描きたかったのだろうか?
それは、わからない。
伝わってくるものは、そのイメージ。
何とも表現しようがないが、
このようにしか表現できないものが、ここにある。
でも何で「頂戴」なの?
頂戴、頂戴という女の子の気持ちなのか?
それさえもわからない。
時々、猫のようなもこもこの顔の周囲を覆うファーみたいなものを
つけた女の子が出てくる。イメージの中の猫?
彼女はときどきバンドネオンを弾く。
公演チラシの裏にこのように書かれている。
超現代口語とメルヘンの融合の蜻蛉玉的不条理劇。
この実験的なメルヘンには、
セックスのシーンが何度か出てくる。
実際に役者は脱いだりはしないのだが、
夫婦やカップルが交ぐわうシーンが。
これは一体どういう意味を持つのか?
謎が謎を呼び、なんだかわけのわからないうちに舞台は終了する。
島林のココロの叫びみたいなものは、
45歳にもなった僕のようなおっさんには
到底理解出来ないものなんだろうか?
ここを突き抜けることによって、より多くの観客に
訴えかける舞台に昇華できたのかもしれない。