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作品・批評の生成する現場という副題がついた、この講座。 今年で11年目を迎える。 僕は5回目の講座からコンスタントに通い続け、今年で7回目になる。 6回目の講座から、八角聡仁氏と森山直人氏が講師を勤める。 5回目までは、演劇評論家の西堂行人氏が担当されていた 。現在、有志で発行している、舞台芸術のフリーペーパー 「プチクリ」はこの講座の5回目と6回目の生徒たちが 中心となって運営されている。 1回目の講座に出席できなかったので、2回目からの出席となる。 講座は全10回で15000円である。 普通のカルチャーセンターなどと比べて格段に安い。 しかも演劇・舞台芸術関係のクリティック講座などというものは 日本中を探したってそうそうないだろう。 扇田昭彦さんが「朝日カルチャーセンター」で 講座をもっていらっしゃるという話は聞いた事があるが。 世田谷パブリックシアターはこういった レクチャーと称した講座が充実している。 それがまた広く開かれているというところがニクイ! 誰でも申し込み参加できるのである。 毎年、参加していると独特の人間関係が出来てくる。 この講座で知り合った仲間たちの関係。 ときどき、劇場などでお目にかかり挨拶などをするようになる。 講座に毎回参加している人同士では 一緒に舞台を見に行ったりメーリングリストを作って 意見交換などをしたりしている。 この人脈はサラリーマン生活だけをしていると なかなか得られない貴重な人脈である。 舞台が好きというだけで集まり、 年齢も学生から定年を迎えられた方まで多彩。 講座がおわると決まって有志で飲みにいき アフタートークが繰り広げられる。 ここから交流が深いものになり本音が飛び交い始める。 いつもTさんがお店を手配くださり、 僕たちはその好意に甘えるかたちになる。 この日の、森山先生の講義は、なかなかに刺激的だった。 森山先生は演劇評論家をされながら 6年前から京都造形芸術大学で教鞭を執られるようになった。 現在、舞台芸術学科の準教授である。 京都で舞台芸術の活動をすることについて伺った。 京都は地理的に終電を気にしなくても大丈夫な 生活スタイルがもともとある。 その中から生まれてくるものは確実にある。 京都には終電がない上に、資本主義もない。 森山先生いわく、舞台に終電がないという表現をされる。 舞台で行われている数時間は「点」でしか過ぎない。 その「点」だけでは絶対わからないことが舞台にはある。 わからないことを解釈し理解するのには時間がかかる。 舞台上で行われたことは、ものすごい情報量を 短時間でしかも全身で浴びることになる。 この解析には時間がかかるのは当然なのである。 その「点」をじっくりと全身にめぐらせて、 時間を共有するための環境が必要なのである。 その環境が京都にはあり、東京には失われている。 高度資本主義社会の最先端を行く東京で失われてしまった、 舞台芸術を見て考えて語るという 本質的なサロンのような環境が このクリティックの講座の中に少しでもあるとしたら、 それは森山先生や八角先生の意思が働き、 Tさんのボランティア的働きによって 成就しているのかもしれないな、と思う。 この日、ある参考DVDを見せて頂いた。 京都発のパフォーミングアーツ集団、ダムタイプのDVDであった。 1995年のスパイラルホールでの公演の記録である。 タイトルは「S/N」。 ぶっとんだ。 10年以上前にこんなにぶっとんだ表現を行っていた人が、 集団が、いたのか! いまや伝説として語り継がれている古橋悌二とは このような男だったのか? 彼がそこで提示しているものは重い。 しかも、表現形態がスタイリッシュで格好いい。 ユーモアと詩情が同居している。 メッセージを押し付けがましくなく感覚的に提示する。 その全てが渾然一体となった舞台芸術が目の前に拡がった。 30分のダイジェスト版からその勢いが伝わってくる。 数年前に見た「ダムタイプ」公演「VOYAGE」はいったい何だったのか? 与野本町までわざわざ行って終電を気にしながら見る公演の中に、 この激情は存在していなかった。 翌年、古橋悌二はAIDSで死ぬ。 彼の全存在を賭けた芸術表現がここにあったのではないだろうか と思わせるチカラを感じた。 一番、面白かったのは、この公演をリアルタイムで観た森山先生が、 当時は今DVDで見るほどの驚きと衝撃はなかった、 まだまだいろいろなことが出来るのではないかという過程の 中の一つに過ぎないと思っていた。とおっしゃったこと。 そして、今、DVDというメディアでその映像を見たときの衝撃は いったい何だったのか? 今、この舞台の記録を見る価値はいったいどこにあるのか? その価値を言語化して語り続けるということが 舞台を「点」で終わらせないということであり、 「面」になった事柄が、こうして時間をかけて、 まるで「立体」のように進化する。 古橋悌二という立体は、このような形に姿を変えて、 いつまでも僕たちの前に、新たな「立体」として、 再度呼びかけ続けてくれるのだろうか? 古橋悌二遺稿集の朗読でこの講座は終わった。 「芸術と実生活の垣根を壊すこと」を 「私の人生を全て出すこと」の勇気は 並大抵で出来ることはないだろうと思った。
by haruharuyama
| 2007-10-03 06:54
| 舞台
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