ロケに行っており、ブログの更新が滞りました。
昨年の「津田沼」の公演あたりから、
THE SHAMPOO HATは徐々に変貌を遂げているのではないかな?
という予感が確信に変わる公演だった。
赤堀雅秋は新しい表現の世界に進んで行こうとしているのだろう。
それを、いままでのシャンプーハットと違うといって
がっかりする人もいるかもしれないが、
新しいシャンプーハットってすっげええ面白いっ!
と賞賛する人が同時に出現してくる。
赤堀は自分の気持ちに素直に突き進んでいけばよく、
そのことを僕たちは受け入れていかなければならない。
ただ、それだけなのである。
赤堀雅秋が主役を演じながら、
こういった舞台がキチンと成立していること。
野田秀樹や松尾スズキのような快挙であり、
それをきちんと演じきった赤堀の想いを想像すると胸が熱くなる。
これは、赤堀自身の魂の叫びだったのだろうか?
事故で死なせてしまった妻のことが忘れられず
三年間悶々としながら暮らし続ける。というストーリー。
ここには何ら華やかさも生の喜びもなく、
とにかく時間を消費するということだけで生きてきた
男のアクチュアリティがドーンとある。
このアクチュアリティは赤堀以外出せなかったのではないだろうか?
同時に、10年以上一緒にやってきた劇団員たちが赤堀を
支えてきたことによって、そのアクチュアリティがさらに強化されたと言えるのである。
この舞台では、露悪的なシーンが頻出する。
赤堀は、妻を失くした後、淡々と3年間生きてきて、ついに決行する。
加害者であった男に、毎日その手紙を届ける。
「お前を殺して、オレは死ぬ。決行まであと○日。」
野中隆光演じる木島は、毎日来るこのような内容の手紙によって追い込まれていく。
人間の恐怖心がもっとも人間を自暴自棄にし、
暴力的にしていくというプロセスを目の当たりにする。
追い込まれている野中はますます暴力的になり、攻撃的になる。
それは自己防衛本能からくるものなのだなということが
肌を通じて伝わってくる。
恐ろしいということが、他者にたいする暴力になりうる原因の
最も大きなものなのだなと実感する。
米国で殺人が多いのは銃の所持率だけではない。
自分が、怖い恐ろしい、という恐怖感を感じる度合いが多いからである。
とマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」でも語られていた。
他人に対する恐怖心の違いが、同じ銃を持つ国、
カナダと比べても圧倒的に殺人件数が多い理由だそうである。
カナダは隣人たちに対してそのような感情をもたないらしい。
野中も結局は被害者意識をもっているからこそ、
攻撃的に振舞っているのである。
この攻撃の連鎖を止めるためにはどうしたらいいのだろうか?
その答えは赤堀自身の中にあった。
赤堀は、3年かかって妻との決別をココロに誓う。
嗚咽しながら、妻の肉声が残った留守番電話の最期のメッセージを消し、
あたかも、消し去ったことを身体に塗りこむように
プリンを身体に塗りたくる。
赤堀の覚悟は決して男らしいとか潔いとかそんなものではない。
苦しみに苦しみぬいたココロの叫びがここにある。
赤堀をここまでにした理由はいったい何だったのだろうか?
カーテンコールの時に恥ずかしそうに
舞台から掃けていった赤堀の姿の中に、
そのヒントは隠されているのか?
とりとめのない文章になってしまった。
しかし、今回の「その夜の侍」とはこのような舞台だったのである。