ベニサンピットという小さな空間でのロングラン公演。
約1ヶ月にもわたる公演にもかかわらずチケットは完売。
当日券のみという現状のようである。
この日も会場はぎっしりと観客で埋め尽くされる。
今月のシアターガイドでも表紙で最も大きく扱われている。
阿佐ヶ谷スパイダースの人気のほどがわかるというものだろう。
本公演では、その観客の期待をいろんな意味で裏切った公演となった。
一筋縄ではいかない構造と実験精神に溢れた舞台は、
ただ単に楽しみに来たという観客を拒絶する。
その潔さが、阿佐ヶ谷スパイダースの三人の俳優から
発案されたことにまず驚かされる。
パンフレットの中に今回の創作のヒントのようなものが書かれている。
(いままでは、長塚が基本となる骨格やストーリーを
用意していたのだが、今回に関しては以下のようなプロセスであった。※筆者註)
まずは作品のアイデアをメンバー三人で持ち寄り
そこから長塚が大まかな骨子として台本にまとめる。
それをもとに実際の稽古に入る前に一定の時間を確保して
ワークショップを行ったうえで台本を練り直し、
その練り直された台本をもとに稽古に入っていこうというものだった。
(中略)
集団として内側に向き合うことで長塚が見い出した新しい地平は、
私たちひとりひとりの人間の精神世界に無限に拡がる
「時間と記憶」についての深遠な物語だった。
本公演を見ないと制作代表の伊藤達哉が
何を書いているのかがわからないかも知れない。
しかし、それくらい今までの阿佐ヶ谷スパイダースと違うものが
そこにあるということである。
これから見に行こうという人はそこの部分をきちんと意識して
舞台に向き合うということが求められるかも知れない。
そこから何を見るのかは観客それぞれに委ねられる。
それくらい抽象的で概念的な舞台ということでもあるのだ。
見ていてベケットの「ゴドーを待ちながら」を思い出す。
待ち人は決して来ない、そのゴドーを待ちながら一本の木の前で
男たちはとりとめもない会話をしている。
本作では猫を延々と探している男(長塚圭史)がいる。
その猫はオードリーと言う。だが「おーちゃん」と呼ばないと振り向かないそんな猫。
その男を追いかける女(奥菜恵)と
人生に絶望しようとしている男(中山祐一郎)がからむ。
そしてベンチで本を読んでいる男(伊達暁)は、長塚の弟だと語る。
伊達の読んでいる本はプルーストの「失われた時間を求めて」なのだろうか?
そうして彼らが取りとめもない奇妙な会話を繰り広げる。
長塚の発する台詞の端々から村上春樹的な言葉を感じる。
論理的な言葉を使いながら不思議なものごとを語りやすい言葉がそこにある。
そして空から降ってくる枯葉は地球温暖化のモチーフなのでしょうか?
坪内祐三がこの舞台をみて「動物園物語」(エドワードオルビー作)との比較に
思いを馳せていた文章が面白かった。(パンフレットに書かれてあります。)
1950年代には価値があったことが無価値になり、
そのポストモダンという時代に長塚が敢えて書いたのがこの
「失われた時間を求めて」であったと。
坪内がこの文章で最後に、
福田恒存の「人間・この劇的なるもの」(新潮文庫)を推薦していた。
「劇的なるもの」の本当の意味がここにあるのか?
早速取り寄せて読んでみようと思った。