前座、立川志の春。彼はエール大学出身なのか?
芋俵」逆さになって夜まで放置されたら頭に血がのぼって、
死んでしまうんじゃないか?と思った。
志の輔登場。「猿後家」長い長いマクラ。
北京五輪の話を中心に語る。
開会式、閉会式ともに素晴らしかった、
ただひとつだけ頂けないのは歌うのを口パクにしてしまったことと志の輔は語る。
実際にその場所で下手でもいいから声を出してうたうという行為が
ライブというものだと、オリンピックはその場で起きている事を伝える祭典なのだから、
やっぱりあの会場でも実際に歌うことによって出てくる臨場感と迫力があると言う。
まさしく、志の輔は自分に置き換えてこの言葉を放つ。
自らのその瞬間の一期一会を大切にすること。
それが舞台であり落語であると言っているような気がしてならなかった。
シドニー五輪のオーケストラの演奏もそうだったと伺った。
その後、日本語の豊穣さみたいな話から、「後家」などという言葉は
最早、使われなくなった言葉であるというような説明をしながら
「猿後家」の話に移る。
このわかりやすく観客をひっぱっていく構成力には本当に頭が下がる。
まず、後家とは「未亡人」のことである。
という大前提を説明する。
1000人以上入るホールで演じる志の輔は動きが大きくわかりやすく演じるんですよ。
と終演後三浦一派の面々に伺ったのだが、なるほどなあ!と思った。
舞台が大きいと小さな動きではわかりにくにだろうという
演出的な配慮が働いているのか!と。
「猿後家」は奇妙な話である。
この後家さんは大店のおかみでもあるのだが、
普段はいい人なのだが「猿」に関しての言葉を彼女に喋ると
突然豹変してしまう性格は一種、変質的なものを感じる。
そんな人が実際にいたら大変なことになるだろう。
ある種の狂気を秘めた後家さんと言える。
「あの人の地雷を踏んだ!」
というような言葉を使う事があるがまさにそのような人。
ただ、「猿」に関する言葉のみに地雷があるということは、
まあわかりやすいとも言える。
猿後家さんは自己の認識能力、言い換えると
客観的に自分を見るチカラに乏しい人だと言えよう。
その浮わついたようなお世辞で一喜するということなどの
あまりに表層的なものがオカシミを醸し出す。
表層的なものを反語的に扱った落語と言えるのかも知れない。
仲入り後、いきなり本筋へ!「柳田格之進」である!待ってました!
「あの五十両なんですが?」と番頭の言葉から始まる。
この話は、とっても良く出来た話である。
贖罪がテーマになっている。
ここでは、野田秀樹が描いているような、復讐の連鎖が行われない。
最後に娘が出てきて、父親に向かって語るという演出は
志の輔独自のものであると三浦一派のMさん、Kさんなどに伺う。
それは女性の地位向上と何か意味があるのか?などと考えた。
しかしながら、当時は人を売買するというような、
女性の地位向上はるか以前の問題も含まれる。
しかし、現在の観客が「武士の情け」と「娘の赦し」と
どちらが共感できるかと問うたに違いない。
そして志の輔ならではの解釈を行った。
それはひとつの見識である。
自らの道を武士の娘として力強く歩む女性として描かれることが現代的なのである。
「柳田格之進」」に関しては語りだすとキリがなくなるなる。
引き続き自分の中で考えなければならない問題がたくさん描かれている。
番頭の人間性。武士としての柳田さまの人間性。
そして旦那の柳田さんへの思いと番頭への思い。
そして娘は一体どのような思いで、
人生を受け入れていったのか?ということである。
映画やドラマならここからスピンオフした企画がたくさん持ち上がるだろう。
番頭物語、とか娘の戻ってくるまでの廓話とか。
碁盤が真っ二つに割れるなんてありえない光景かもしれないが
ものすごく映像的な表現だなあと思った。