この映画は映画鑑賞の友であり、社会に対する意識が近い
Sさんの強力オススメ映画である。
何とか時間をやりくりして見に行く。
ギリシア人たちの近代史をベースにした話。
もともと、ギリシアの文豪カザンツアキの小説が原作となっているらしい。
ギリシアの近現代史を描いた映画では
「旅芸人の記憶」が思い起こされるが、
この映画はそれよりはるか前に製作された。
モノクロームのワイドスクリーン画面がいい。
トルコにある小さなギリシア人の村でのお話。
ここではトルコ人が村を緩やかに統治している。
トルコ人はムスリムである。
キリスト教徒であるその村のギリシア人たちは、
集権的な教会の聖職者たちによって管理されている。
そこで緩やかな秩序が保たれバランスが取れている。
そこに別の村でトルコ人に対して
抵抗してきたギリシア人たちがやってくる。
カリスマ的な司祭に導かれて村を捨てたのだ。
彼らはいわゆる難民である。
難民たちはこの村に生きる希望を託すのだが、
教会の聖職者たちは彼らに対して「NO」を突きつける。
仕方なく彼らは、近くの不毛な丘にて集団生活を始める。
彼らは着るものも少なく、ましてや食べるものなどほとんどない状態であった。
そんな彼らは、その土地を開墾しようとする。
今となっては、こんな勝手な開墾は許されないだろうし、
また、難民に対する支援もまったく違ったものになっているだろう。
第1次世界大戦後の話である。
もともとの村では年に一度あるお祭りでやる演劇の配役を決めている。
教会で選ばれた村の人々が演じるのである。
映画の冒頭はこのシーンから始まる。
教会で名前が呼ばれる。
使徒の役、キリストの役、ユダの役などがそれぞれ決めていかれる。
このような場面を見るにつけキリスト教のこと聖書のことなどを
知らないことが、どれだけこの映画の理解を浅くしてしまっているんだろうと思った。
選ばれた村人たちは村の中でもマイノリティであり
貧しいものたちばかりであった。
その弱者である彼らが、難民である同胞のギリシア人たちに
食べ物などを分け与えようとする。
弱者同士のいたわりあいが村人と難民との交流を産もうとするのだが
現実はそう簡単なものではない。
この映画の凄いところはここにある。
イタリアのネオリアリズモもこの時代に起きた映画の運動だったかと記憶している。
このネオリアリズモの精神がこの映画には刻まれている。
結局、難民たちと村の住人たちは戦うことになる。
民衆の独立でも何でもない戦争が始まろうとするところで、この映画は終わる。
ああ、内戦ってこのように始まるのか!と思った。
また、パレスチナ問題も同じような側面を抱えているとも思った。