先日、若松監督の「実録・連合赤軍」をススメテくれたYさんから貸して頂いた。
若松孝二46歳の時の語り下ろし。編集は内田栄一。
読み物としてものすごく面白い。
若松孝二の波乱万丈の半生がここに凝縮されている。
1936年(昭和11年)に宮城県の田舎町で生まれ、農業を手伝いながら学校に行く。
そして親の勧めで高校まで行かせてもらうのだが、悪いことばかりを繰り返し、
3度目の停学から退学処分となる。
そうして彼は東京にやってくる。
「ALWAYS三丁目の夕日」の世界である。
堀北真希が青森から出てきたように。列車に乗って宮城県から東京へ。
若松孝二は東京のお菓子屋さんで丁稚奉公みたいなことを始める。
ただし、ひとところに長く居るタイプではなく転々とするタイプ。
女の世話も随分受けてきたみたい。
本書が語り下ろされたとき若松孝二は46歳だった。
この年齢になると若いときにやってきたことを
赤裸々に語っても、だんだんと恥ずかしくならなくなる。
若松孝二も初体験の童貞喪失から何からとにかく素直に語っている。
その後、ひょんなことからやくざになるのだが、
あるときに警察につかまり拘置所に入れられる。
結局、執行猶予三年がつくのを気に、
拘置所経験で警察権力に蹂躙された怒りを
映画という表現媒体に向けていくことになる。
現場のどろどろのところから地を這うようにして這い上がっていってる人間は強い。
そこが若松孝二のものすごいところであると思った。
自らの権力に対する怒りが創作意欲につながっていく。
若松孝二は70歳を過ぎたいまでも
セックスと暴力と反権力闘争の人である。
その一貫して変わらない姿勢は敬意に変わる。
助監督からピンク映画の監督に、その過程で
様々な映画人などと知り合い交流をする。
足立正生、松田政男、大島渚、唐十郎などなど。
「犯された白衣」と「性賊」(セックス・ジャック)の二作品が
カンヌ映画祭に出品された1971年に衝撃的な体験をすることになる。
カンヌの帰りにベイルート経由でパレスチナに入り、
そこのゲリラを撮影することを試みる。
最初は訓練に明け暮れるのだがあるときに何を撮影してもいいと言われる。
生死のギリギリのところで撮影を敢行する。
独立プロだからこそ出来る事があると思った。
結局、個人の熱意の強さが何かを動かしていく。
組織では決して出来ないことがあることを教えてくれる。
現在なら自己責任ということばで
メディアたちはこのような行動をどのように語るのだろうか?
この取材で通訳として尽力したのが連合赤軍の重信房子であり、
パレスチナでは岡本公三は英雄視されていることが書かれている。
こんなところからも「実録・連合赤軍」に至る発芽を見て取れるのである。
その後、若松はプロデューサーとして「戒厳令の夜」や「愛のコリーダ」を仕切る。
「愛のコリーダ」がヒットした若松はそれまでの借金が帳消しになったそうである。
そして「水のないプール」へ。
本書は「水のないプール」の公開に合わせて作られたものだったのだろう。
疾走するように生きてきた男の半生記の読み物として本当に面白かった。
そして、映画をこのような想いをもって作る事が出来るのだろうかと自分に問うた。