棄教という言葉がたくさん出てくる。
自分の信じている思いを捨て去るということ。
そこに至るまでのポルトガルからの伝道師を主人公にした小説である。
以前、朝日新聞の書評欄で本書のことを取り上げており、
読んでみたいなあと思っていた。
先日、Nさんと好きな作家の話になった。
Nさんのお好きな作家は三人居るとのこと。
遠藤周作の名前がまず挙がった。
その時に、「沈黙」や「海と毒薬」の話になった。
それがきっかけで紀伊国屋書店においてあった本書を買い求め
読み始めた。
Nさんの好きな作家のあと二人は、
石川達三と井上靖。
僕が高校の時に触れた作家たちの名前が挙がり、
懐かしい想いとともに、Nさんへの共感を強くした。
間接的な体験を共有することによる共感であった。
ポルトガルからアフリカ大陸を渡りインドからマカオ経由で長崎に。
長崎の島原の乱以降、幕府はキリシタンに対しての弾圧を強くした。
政府は再度、島原の乱のような
ことが起こらないように
監視と隠れキリシタンの発見に努めていた。
当時は彼らはまるでテロリスト的なものに思われていたのだろう。
本書の中で「敬虔な信仰のチカラ」というものの純粋さが描かれている。
その意志がこの小説の全編に渡って貫かれている。
遠藤周作自身の信仰の思いへとつながっているからなのだろう。
緊張感あふるるタッチで、物語は進行していく。
ドラマチックになりうるシーンもあくまで淡々とした筆致で遠藤周作は描いていく。
その客観的でクールなタッチが逆にそこで行われていたことの
現実を鋭く見つめることになり劇的に感じられる。
棄教しないで己の信念を貫いたもの。
自分のココロの弱さから思ってもみない結果で棄教してしまうもの。
そのような人々が幾人か現れ対比されながら語られる。
決して、どちらが素晴らしいということではない。
それぞれに自分の中に信じるものがあることは変わらない。
棄教してしまったキチジローの想いを想像する。
彼の後悔と罪悪感とともに、棄教を選択せざるを得なかったことを悩み、
贖罪されることを希望しながら生きていかなければならない人生とは?
それは市中引き回しされる
異人ロドリゴが裸馬に乗せられるシーンで顕著に現れる。
申し訳ないという思いを引きずりながら
キチジローはいつまでもロドリゴの乗っている馬を追いかけるのである。
ロドリゴが棄教して帰化することが小説の最後の方で描かれる。
このときのロドリゴの思いはいかがなものだったのかと推測されるのである。
踏み絵のシーンが象徴的である。
踏み絵の中の主がロドリゴにどうか私を踏んでくださいと告げるのである。
踏むことによって棄教としても本来の信仰とはなんら関係のないものである。
ロドリゴは、そのように主が語る声に耳をすませており、主の言葉に従い棄教する。
主はロドリゴを許したもうた。
また、主は裏切りものと言われているユダをもお許しになるのだった。
許しを与えるということがどれだけ深く大きな愛情に裏づけられているのか
ということを考えさせられる小説である。
そして、今の時代にこういった小説が再度読まれることは
非常に意味のあることなのかも、と思った。
いま、どれだけの人が大きな愛で人を許す事が出来る時代なのだろう?