クリスマスの時期にやると毎年行われている劇団昴の定番となった公演。
以前は千石の三百人劇場で行われていたのだが、
劇場の廃止とともに昴は新たな劇場で
この「クリスマス・キャロル」を続けている。
以前から、一度、見にいってみたいと思っていた。
丁度スケジュールが空いて行く事が出来た。
原作のチャールズ・ディケンズは英国の19世紀の偉大な作家であると言われている。
彼の著した「二都物語」は村上春樹も絶賛の小説だと聴いた。
19世紀の話を、劇団昴は素直にそのまま再現して舞台にしている。
その頃は丁度、産業革命が起こり、貧富の差が大きくなったころ。
今の、格差社会にも似た構造がある。
スクルージという男がその主人公である。
彼は中小企業の社長である。
がめついケチな男で従業員にも親戚にも冷たい。
その彼のところに亡霊がやってくる。
亡霊たちは過去のスクルージと、今のスクルージ、
そして未来のスクルージのクリスマスイブの様子を見せる。
「マッチ売りの少女」のようなファンタジーが起こる。
そこで、スクルージは寄宿舎時代に父親に好かれておらず
クリスマスは一人ぼっちだったこと、
そして現在では、従業員の家族が仲睦まじくささやかな
クリスマスの宴をしているところや
甥の友人たちが楽しそうにゲームに興じるところが描き出される。
未来では、死んでしまったスクルージの遺品を売りさばこうとする
人々が現れる。
クリスマスイブの一夜にスクルージはその夢?を見て
自分の一生を知り、本当の豊かさとは幸せとはを考えるのである。
そうして、スクルージは変わる。
従業員の家に七面鳥を届けさせ、甥のところのパーティに参加させてくれと頼む。
結局、ここではスクルージの持っているお金をみなに分け与え、
幸せを分かち合うという構図になっている。
お金で出来ないだろう事を
スクルージはお金を使って解決しようとしているのである。
このことが、この舞台が十九世紀であることを象徴している。
この日だけは事務所の暖房の石炭もたくさん燃やして
温かくしましょうとスクルージは言う。
今の、時代感覚とは全く違う。
富を分け与えることがこういったことでしか
実現出来ていなかった時代だったということを強く感じた。
今の経営者たちとは全く違う。
いまや企業は社会に貢献するための集団で搾取するものではなくなりつつある。
そういう意味でも、
この舞台を現在に置き換えて語ること自体は、
ナンセンスなことではある。
それでもやはり、
昴がこの作品をやり続ける意味を考えていかないといけないなと思った。
旧態依然とした教条主義的な舞台なら
もはや、それを上演する必要がない。
ある種の違和感を払拭できないまま舞台は終わる。
この舞台を続けるという意味では、
現在との違和感のある部分をどう埋めていくのかが
制作者に求められる。
そのためにはスクルージ自身の魂の救済について
もっと突っ込んで描いていく必要があったのかも知れない。
しかし、そのことを差し引くと
ほんわりとした穏やかで優しい気持ちが残る舞台であった。
終演後、俳優たちが「きよしこの夜」を歌ってくれ
劇場ロビーで観客を送り出してくれる。
子役の少女が良かった。蒼井優を彷彿とさせる。