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ロバート・アラン・アッカーマン率いるカンパニー、the company主宰の公演。 シアターモリエールという小さな小屋に総勢30名というキャストが出演している。 ものすごい迫力である。 大音量の「BORN IN THE USA」から舞台は始まる。 アメリカに生まれてはみたけれど。 というような脚本である。 NYのとあるダイナーがここの舞台である。 そこには米国の底辺で暮らす人たちが集まる。 ホームレス、ジャンキー、売春婦、男娼、薬の売人などなど。 彼らはどうしようもない暮らしの中でそれを抜けられず もがきながらも毎日同じダイナーにやってくる。 薬の売人の世界へ足を踏み入れようとしている男が 売人の手前で戸惑っている。パク・ソヒ演じるジョーである。 ある日ダイナーに美しい女がやってくる。 ほっそりとしたその姿と色白にビックリする。 その彼女はシカゴから姉を探してやってきた。 彼女の名前はダーリーン、宮光真理子が演じている。 彼女の容姿はモデルのようにほっそりとしている。 というかモデルがすぐにでも出来てしまうような体型である。 彼女がものすごく長い台詞を喋るシーンがある。 いっぱいいっぱいになるくらいの台詞量。 彼女は何とか言うことが出来た。 しかし、それ以ではなかった。残念。 俳優たちの演技は全般的に熱い! いつも叫ぶように台詞を語る。 会話が同時にいくつもの箇所で行われている。 それをじーっと見ている。 見ていて思った、これは「どん底」じゃないか? 現代米国版の「どん底」がここにあると。 先日、見たKERAの「どん底」とも ジャンルノワールの映画「どん底」とも全く違う 「どん底」がここにある。 彼らもまた歌を歌う。 出口の見えない場所から。 「どん底」の現代日本版を見たいなあと思った。 バーム・イン・ギリヤドとはギリヤドには香油があるという意味らしい。 ギリヤドとはいったい何なのか? ▲
by haruharuyama
| 2008-04-17 08:18
| 舞台
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青山円形劇場から少し坂を下ったところに青山病院がある。 いま、この病院は閉鎖されており再開発を待っている。 とっても優雅な緑多い土地なので、上手に活用して欲しい。 その病院の向かいに「はこぶね」はある。 マンションの一室を改造した劇場と言ったらいいのだろうか? 壁は真っ黒に塗られどこから見ても劇場である。 ゴールデン街劇場をさらに半分にしたくらいの大きさ。 客席はこの日は17人。 ゼロからこういった小屋を作ってしまうところに 主宰者のこだわりを感じる。 主宰のタニノクロウは精神科医でもある。 彼は、医者をやりながら演劇活動を行っている。 何故こんなにも素敵な仕事が出来るんだろう? 何故、彼は演劇活動をやり続けているのだろう? 何故、彼は全てのことをひとりでやってしまうんだろう? 何故、彼はこのような不思議な物語を紡げるんだろう? 何故、彼はこんな小さな小屋で17人だけのために 何度も公演をやるのだろう? そこには彼なりの意味がある筈である。 「はこぶね」自体は、普段稽古のみで使用している場所だそうである。 舞台のリーフレットに本作の説明が少し書かれている。 昔々あるところに、 雌の豚((ペテュ)と雌の羊(モルチ)が同居していました。 二匹の部屋は少し変わっています。 二本の木が生えているのです。 天井の低い部屋にはまさに木が生えている。 窓の外にはたくさんの葉が、こぼれ出さんばかりである。 上手と下手にそれぞれドアがある。 上手からはモルチが下手からはペテュが現れる。 頭の後ろを極端に長くしたスタイルが奇妙で目を引く。 また極端に出っ歯にしていることが さらに奇妙な印象を残すのである。 その出っ歯や生えている木のリアリティが この舞台に厚みと驚きを付け加える。 部屋の真ん中の上方に左右60センチくらいの LEDの電光掲示板が設置されている。 ここにタイトルが流れる。 第1話「数式と豚の・・・」などというような 少しカッコいいタイトルが付けられる。 そのLEDの文字の流れるスピードと 舞台の間などが相俟ってスタイリッシュな品質感とでも言えばいいのだろうか? が、漂ってくる。 そして、驚くのが第二幕である。 暗転後、何故このようなものが舞台に! と本当に驚かされる。 これ以上は舞台が終わるまでは書けないが、 このような世界観をここに作り上げることに感嘆する。 そこのこだわりはいったいどこから来るのだろう? 舞台を見るとは、それを体験することである。 エクスペリアンスなくしては舞台を見たとは言えない。 その、そこにいるよ感が強烈に僕たちを支配する。 印象だけが強く残る演劇は長く記憶に残るものになる。 台詞は、意味をなさなくても構わない。 作・演出・美術・照明・音響 タニノクロウ。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-16 07:48
| 舞台
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現代口語ミュージカルと副題にある。 潤色・演出の柴幸男は「歌わないミュージカル」と題して チラシの裏に文章を書いている。 恥ずかしくないミュージカルを作ろうではないか。 音楽と芝居が融合し、音楽劇として成立している。 彼はその問題点がメロディにあるという仮説から 今回の舞台の演出を行った。 メロディのない音楽劇という発想。 それはこの時代だからこそ生まれ出たものなのかも知れない。 そして、柴幸男のこの大胆な発想は一つの成功をもたらした。 あるひとつの回答になっていた。 平田オリザの原作を大きく変えるようなことはしていない。 この戯曲自体がなかなかに面白いものであるだけに、 音楽が関与しなくても十分に楽しめる内容を持ったものなのである。 舞台の左右に大きなスピーカーがぶら下げられている。 ここからリズムボックスの音が流れてくる。 ときどき台詞や間にあわせて、繰り返し刻まれているリズムが速くなったり、 止ったりする。 それを意識的に聞かされるので僕たちは、 彼らが発している台詞があるリズムに合わせて発せられているのではないかと 錯覚したような状態になる。 突然の間も面白い。 会議の参加者の中に 五反田団からやってきた客演の俳優?山田が居る。 彼は一言も台詞を発しない。 彼の御前で会議が行われる。 何も言葉を発しない御前にときどき会議の出席者が質問する。 その時の「間」が印象に残る。 通常のリズムで刻まれた音が一瞬「素」になるからである。 こうやって、僕たちはリズムを心待ちにするようになる。 規則的なリズムに刻まれた中から発せられる言葉はまさに音楽である。 それが音楽であるということを認識出来るようになったことは 「HIP HOP」という音楽ジャンルが 生まれてきたことに起因する。 「HIP HOP」がない時代には この演劇は果たして音楽劇と言えるのか? とみなが思ってしまっても不思議ではない。 先日「トップランナー」でKREVAがどうやって HIP HOPの音楽を作っていくのか、という下りが まさに今回の舞台とシンクロした。 この音楽の作り方ってまさにこの舞台に似てる。 さらに脚本を再構成して韻を踏むところがあったりすると さらに面白かったかなとも思った。 ドイツに視察に行った軍の幹部が、 その視察に際してアウトバーンでハリネズミが轢かれる ということを先守防衛とからませて語るところは まさにHIP HOPである。 俳優の河村竜也はマイクを持ってリズムに合わせて、歌うように喋り、喋るように歌う。 その気持ちよさはまさに音楽。 台詞が言葉として入ってこないことの方が 説得力を持ちえるという究極のカタチである。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-15 07:10
| 舞台
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「売れる通販ビジネス」に続けて読んだ。 単品通販に関してのインターネット広告は どのように行っていくのがいいのかということを具体的に語ってある。 著者の加藤公一レオはADKで ダイレクトレスポンスマーケティングを行っている方。 ブラジルサンパウロ生まれなので、レオという名前が付いているのかは不明。 本書のいいところは文字が大きいので老眼が始まった僕でも 読みやすいということと、情報量が少ないので ポイントとエッセンスだけが書かれておりわかりやすい。 情報を水増ししたものほど読んだり見たりしていて 時間を浪費していると感じる。 ある情報量が凝縮されていないコンテンツにヴァリュー感はない。 その典型的なものがテレビのバラエティ情報番組である。 同じ映像がCMの前後で繰り返し使われ、 いかにもというような手法でもったいぶるやり方、 音と同じテロップの文字がでかでかと入る手法は いいかげんやめたらどうだろう。 うちはそういったやり方をしませんという宣言を どこかの民放局がやるようになると変化するだろうになあ?と思う。 視聴者を馬鹿にしているとしか思えない。 WOWOWで独自のドラマコンテンツを作る流れが出てきているのが興味深い。 民放キー局で作られているドラマを初めとしたコンテンツに 限界が来ていることの裏返し現象である。 本書の前書きにこうある。「単品通販会社向けに インターネット広告でレスポンスと顧客行動効率を劇的に上げる 具体的な手法を紹介する」と。 通販の売り方のひとつとしてインターネット広告の重要性が 大きくなったことの証拠だろう。 「単品通販」というのと「ゼネラル通販」との違いも書かれている。 「単品通販」とは同じ商品を繰り返し購入していただける 仕組みのビジネスだそうである。 また「純広」(バナー広告、メール広告、テキスト広告)という言葉も ここで初めて知ることとなった。 アフィリエイト広告と検索連動型広告(リスティング広告)は 「純広」ではないそうである。 TVのことしか知らなかった僕はまさに新しいことの連続である。 そして本書を読んでいてその具体的な手法にもまた驚きの連続なのである。 バナー広告などは「動きをつけないこと」 「キャッチコピーをしっかりと表記すること」「商品の写真は載せないこと」 また、通販などの世界の商品についての説明が面白かった。 生活者は商品を買っているのではなく 商品に込められた思いを買っている。なるほどなあと深く納得。 クリエイティブに関してはクリエイティブテストを行い、 各要素ごとに、最も反応が高いものを抽出して その要素だけでクリエイティブを作る。 各要素のバランスや統一性などといったものは全く関係なく、 その順番だけで作ったクリエイティブが、 一番レスポンスが上るそうなのである。 これを「クリエイティブ最適化」と呼んでいる。 芸術学ではなく統計学的要素によって レスポンスは確実に上るそうなのだ。 またまた、Sさんのおっしゃったダイレクトマーケティングは科学です。 という言葉を思い出した。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-14 07:09
| 読書
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副題に、「広告現場から見えてくる成功へのナレッジ」とある。 ダイレクトマーケティングに関する仕事をすることになった。 話を聞いてとまどうばかりだった。 僕以外の方々はみんなダイレクトマーケティングの専門家である。 何か参考になる本はないでしょうか? と尋ねたところ。本書の名前が即座に上った。 目の前のみなさんは既に知っていること。 そのダイレクトマーケティングの基本中の基本が簡潔に書かれている。 翌日、マガジンハウスの傍の本屋さんで発見! 早速購入して読んでみる。 と、「なーるほど!」と目から鱗の落ちるような話が満載である。 通販ビジネスってこんなにも広範囲だったのかと思った。 そしてダイレクトマーケティングというものは ここまで方法論が違うのか?と思った。 ジェネラルマーケティングという言葉がある。 通常の広告表現はここに含まれる。 店頭販売を中心としたマーケティングである。 ジェネラルマーケティングでは主に認知を上げる事が求められる。 多くの人に気づかせること。 しかしダイレクトマーケティングは違う。 言葉通り、直接届く事が必要なのである。 受け手の主体的な行動なくしては購買に結びつかない。 そのめんどくさいことをしてまで買いたいと思わせることが 重要であるとここには書かれている。 従って、認知度を高めるというだけでなく、 そこから生活者を説得し、生活者に納得してもらい 行動を起すところまでがダイレクトマーケティングには求められている。 面白いなあと思ったのは、 インフォマーシャルやチラシ、60秒CMや通販ショッピング番組などの 広告表現をする場所は通販会社のお店でもあるのですということ。 お店で店員さんのお話を聞き説得され買ってみようかというような 気になる話法がそこには求められてくるのだなあ!と思った。 アクションまで起してくれる人は接触した人数の0.1%もあれば 十分ですということにも驚いた。 その0.1%以下の人々に向けて深く届くメッセージの 発信が求まられているのだなあということを改めて知る。 そして、買ってくれた人が、続けて買ってくれる仕組みを開発し、 同時に新規購入者を獲得しつつ 長くその商品を売り続けることによって通販ビジネスは 成立していくというような長期的スパンの展望がある。 その際に、いかに新規のお客様を継続していき そのお客様が贔屓にまでなってくれ、 贔屓筋がさらなる広告塔になってくれるという循環を作りたいと考えている。 「ジェネラルマーケティング」の考え方とはまったく違う発想の ダイレクトマーケティング。 実際に、テレビで見る機会や、ラジオ、新聞での接触が ものすごく増えて来ていると感じている。 チャンネルを回すとどこかで通販ショッピングのようなものをやっている。 その理由は、媒体で流してみることによって 直接の反応を確かめることが必要であるということと、 店頭販売で必要な店舗運営費用や販売員への費用を 広告費や媒体費に置き換える事が出来るからという理由がある。 その経費が広告の媒体費に向けられるのである。 専門家のSさんは、僕にこうも言ってくれた。 ダイレクトマーケティングは科学なんです。と。 そして、通販ビジネスが、国内の小売業で 第4位の市場規模に拡大した今、 ダイレクトマーケティングのことに主体的に携わる事が出来、 すこしワクワクしている。 ここには、いったい、どんな未来があるのだろう? ▲
by haruharuyama
| 2008-04-13 11:11
| 読書
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文化村プロデュース公演。 KERAがゴーリキーの「どん底」をやる。 先日、ジャン・ルノワールの映画「どん底」を見たばかりだったので 大変興味深く見る。 KERAの脚色や台詞が随所に盛り込まれ、 難しい戯曲を、なんとかかんとか現代の僕たちにも 伝えることができただろうか? (以下、ネタバレ含まれます。) ストーリーを調べて見ると ほぼ原作どおりに舞台は進められている。 大きく、はしょられているのが、 男爵がギャンブルで堕ちていく以前のことは語られず、 また宿屋の姉であるワリシーサ(荻野目慶子)と 泥棒のベーベル(江口洋介)の愛欲関係はあまり描かれない。 その後の、「どん底」の宿屋のシーンから始まる。 キャストがたくさんいて人物の関係性が把握しにくいのが 「どん底」の最大の難事である。 ところどころKERAらしいバカバカしい台詞が顔を出す。 そのバカバカしさのオブラートに包まれながら、 人間の本質を語っていく。 その狂言回し的な役割が、段田安則である。 河童のような髪型をした「ロシア正教会の修道僧?」のような 格好をしたおじいさんを好演する。 彼が語る言葉が面白い。 「じいさん、あの世には神様はいるのかね?」 じいさんは答える 「あなたが、神が居た方がいいと思うならいるし、そうでなければいない。」 そう 「全てのものはあなたのココロの内にある」 ということである。 このような言葉をこのじいさんは言い続ける。 ある日、じいさんは大家さんに反抗したために 宿屋を出なければならなくなる。 しかし、じいさんがいなくなっても、彼の語ってきた言葉が 「どん底」に暮らす人たちにきちんと受け継がれている。 誰かが台詞を発して 「あれ、じいさんみたいなことを言っているな」 という実際の台詞も語られる。 舞台自体のクライマックスは2幕目のラストにあるのだろう。 荻野目慶子の夫を江口洋介が殺害するシーン。 タッパのあるプロセニアムからは大量の雪が降りしきる。 ものすごい量の雪である。 よく撮影などに使われている雪が客席まで降り注ぐ。 この雪は自然に溶けていく。 そのドラマチックなところで殺害のシーンが。 しかし、KERAの殺害は意外な展開の結果だった。 純粋無垢な緒川たまき(ナスターシャ)は 純粋だったがゆえに裏切られたときの 逆襲の仕方がストレートで見ているものまでもが痛々しくなる。 驚きの瞬間。 そして刑期を終えた江口が戻り、 「どん底」生活は延々に続くものかと思いきや、 役者だった男(山崎一)が自死をする。 延々とこの「どん底」から這い上がれない状況を 彼らは歌うことによって一時的に鎮めようとする。 それが「カチューシャの歌」である。 「りーんごの花ほころび、川面にかすみ立ち、 君が亡き里にも、春は忍び寄りぬ♪」 結局、人は生き続け、春は巡ってくる。 無常観を持った人生観を感じる瞬間である。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-10 08:47
| 舞台
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「顔」の「美醜」をテーマにした舞台を作りたいと 三浦大輔は以前から語っていた。 今回、やっとそれがカタチになった。 僕自身も生まれてから右の目のスミに赤い痣があり、 これは一生消えないだろう。 小学生の頃は「日本地図」などと言われていた。 そのころの地図や地球儀の日本はたいてい赤色だった。 そして僕はその赤い痣と一緒に生きている。 「顔」の美醜だけで人間関係や男女関係、 人間の価値を問うというテーマは考えさせられるし、面白い。 いまや、本多劇場の客席は一杯である。 若者を中心に劇評家の方々がたくさんいらしている。 まずはKさんにお目にかかり、 NさんOさんにトイレの前で出会う。 毎回、スキャンダラスなお話を、 ここまで細部にこだわってやるかと言われるくらい 舞台上でのリアリティを持ちえるのは、 確実に三浦大輔の演出の才能に追うところだろう。 特に台詞の喋り方、間の取り方は天才的とも言える。 本当に観客席から、今、起こっていることを 覗き見しているような状況を作り出す。 それを僕たちは固唾を飲んで見守る。 劇場での共犯関係が成立する。 サイモン・マクバーニーの共犯関係とはまったく違う共犯関係。 その刺激的な舞台は記憶に長く残る。 今回は、大家さんの居る一軒家が下手にある。 二階建てで一階がリビングとなっている。 内田慈は長男の嫁としてここに小姑である妹と夫と 三人で同居している。 義理の妹の部屋は二階にある。 上手には同じく二階建ての建物がある。 こちらは同じ敷地内に建てられたアパートである。 一階にはブサイクな男(古澤裕介)が住んでいる。 この男にはブサイクな彼女がいる(白神美央)。 彼女は時々アパートを訪ねてくる。 アパートの二階には、米村亮太郎が一人で住んでいる。 時々、顔にあばたのある弟と 可愛い彼女(安藤聖)がアパートにやってくる。 大家の妹(=小姑)は、先日合コンの 王様ゲームで顔に火傷を追った。 ライターで顔を焼かれたという。 どんなライターやねん! とつっこみたくもなるが、 顔を焼かれて跡が残るかもというところがこの舞台の味噌であるので そのつっこみは、忘れることにする。 彼女のところにライターで火を付けた男と王様だった男が謝罪に来る。 このような感じで舞台は進行していく、 全部で7章から8章になるものそれぞれに 漢字一文字でタイトルがつけられている。 「美」「醜」「性」「業」など。 その意味は深く広い。 そして、今回、三浦の演出は冴えに冴えている。 「ANIMAL」や「夢の城」「恋の渦」などで行われていた 方法論をフルに使っている。 平田オリザの様に同時進行的に4つの部屋でドラマが、 会話が同時進行していく。 4倍手間がかかるだろう。 しかし三浦はその大変なことを難なくやってしまう。 終演後、劇評家のNさんが三浦大輔は いつのまにか大家になりましたね。と。 本当にそう思う。 しかし、このアバンギャルドな姿勢を保ち続けていくのかどうなのか? いや違うと思った。 ラストシーンを見て、そんなことを感じたのである。 日々繰り返される日常の中から生まれてくる物語を 三浦はきちんと描ける。 そして、それをきちんと作ることによって さらなる新しいポツドールが生まれてくるのかも知れないと思った。 聖なるものと邪悪なるもの、生なるものと性なるものは 人間の中には必ず同居しているものだから。 三浦が今後目指していく方向はどこなのか? 本当に楽しみである。 こういった30代前半の優れた劇作家・演出家が出てくるというのも 日本の、東京のアマチュアリズムも包含した演劇界だからこそ 出来ることなのかも知れないと思うのである。 ルールのない多くの多様性の中から 生まれ出るものが、確実にそこにあった。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-09 09:50
| 舞台
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藤本由香里(元、筑摩書房編集者、現、明治大学准教授・マンガ研究家) が書いた「朝日新聞」のコラムを読んだ。 何気ない話なのに、思わず涙がこぼれてしまう。 いったいこれは何だろう?そんな漫画です、と。 それを読んで、会社でその話をしたら KTさんのロッカーから「君に届け」が出てきた。 聞いてみると、デスクのKNさんがもっているものを借りているとのこと。 早速、読み始めて、藤本由香里の文章に納得。 純粋さを極めていくと、このようなココロに染み入るものになるのか? この純粋さはどこにから来るのか? 「別冊マーガレット」連載ということから、 若い読者(中学生や高校生)がターゲットだけに 純粋無垢なものを描いていくという手法は現実的である。 (「レディコミ」じゃないからね。) 人間関係をこのように構築できる主人公は凄いと思った。 そして読者の僕たちは彼女の成長の一挙一動を追いかける。 その中から「ともだち」を作ること「恋愛」を知ることなどが描かれる。 主人公の黒沼爽子は、学校のみんなから無視され白い眼で見られていた。 彼女のあだ名は「貞子」である。 あの「リング」や「らせん」のホラーに出てくる髪の毛の長いあの女性である。 しかし、彼女の本質はそうではないということを、 ちゃーんとわかる男の子や友人が現れる。 黒沼爽子は、表面的なだけの付き合いを決してしない。 勇気を持って面と向かって相手と向き合う。 そのリスクを全てしょって人に向き合う。 だからココロから信頼できる友に出会ったり、 ココロの底から好きだと思える相手に出会えるのだろう。 その「純粋さ」に頭が下がる思いである。 何が本当に大切な事なのか、ということを黒沼爽子は教えてくれる。 その向き合い方が不器用で一生懸命だからなおさら、 彼女のことを見ていていとおしくなる。 そんなキャラクターを描きながら本当の友人と 交流を深めながら彼女たちは生きるということの意味を見つけていくのだろう。 そこがキチント描かれているからこそ、 この漫画は多くの読者やファンをつかんでいるのだろう。 46歳のおじさんが読んでも十分に面白い、 というか、教えられる漫画がここにある。 この手法が他のコンテンツ制作にも応用できないかと思った。 底抜けにハッピーな世界はどこにあるのだろう? それはどこから来るのだろう。 「ハッピーじゃないのにハッピーな世界は描けません」と言って 自らの命を経った、あるCMディレクターのことを思い出した。 その対極にあるものから、 新たな価値が生まれてくるのだと信じたい。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-08 09:00
| 読書
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「どん底」のジャン・ルノワールを見て、残念に思っていたが その思いが、間違いかも知れない、とこの映画を見て思った。 やはり、この時代まで語り継がれている作家には何かあるのだった。 私の目が濁っていました、すいません。 「大脱走」という映画の名作があるが、その映画の原点はここにあったのか! と納得。第二次大戦前の映画なので 第一次世界大戦のときの脱走劇を描いているのだろうか? ドイツ軍の捕虜となった将校たちが捕虜収容所から脱走しようと試みる。 最初の捕虜収容所では、トンネルを掘って逃げようというもの。 収容所の部屋の一角から地下へ掘り進む。 具体的な地下道の描写や実際に掘り進むシーンは出てこない。 ディテイルを描写したところが「大脱走」を 一級のエンターテイメント作品にしている。 掘った土を将校たちが収容所内の庭に捨てに来るところなどは 「大脱走」はそのまま流用しているんじゃないかと思えるほどである。 しかし、フランス軍将校たちは計画途中で収容所を移送されることになる。 ドイツの古城を改造したと思われる収容所。 移送の時の移動撮影が見事である。 この時代にここまでうまく移動撮影を成し遂げたのは画期的であろう。 また映画のスクリーンの端々から 画家を父親に持っているということがわかる 素晴らしいフレームングがなされている。 特に後半のドイツの山奥のスイス国境の近くの 未亡人女性の家でしばらく過ごすシーンは秀逸である。 高い場所から眼下に拡がる風景が一枚のフレームの中に収められている。 この映画の「大脱走」との大きな違いは、 古城から脱走した二人組みのその後を丹念に追うところ。 そして彼らはドイツの山奥の家で未亡人と残された娘とともに 足を怪我した将校の傷が癒えるまでを過ごす。 一人のフランス人将校とドイツ人未亡人は恋に落ちる。 国家を超えた愛が、戦争を凌駕する。 そして、我々は、戦争自体の持つ非情さを知る。 という意味でこの映画は戦争映画としての反戦映画である。 ジャン・ルノワールからのメッセージは強い。 戦闘シーンがほとんど出てこない戦争映画の原型がここで作られたのか? 復元プリントの状態がいいので映画に没頭できるのも嬉しい。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-06 09:47
| 映画
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5月まで行われている、「ルノワール+ルノワール展」の一環。 映画監督のジャン・ルノワールは、 印象派の画家オーギュスト・ルノワールの次男。 親子で芸術家になる。 しかもどちらも歴史的に名を残す。 凄い家族である。 ルノワール家は、どのような家庭だったのだろう? 4月23日まで「ルノワール監督名作選」ということで 15本の映画が上映されることになった。 初めてのルノワールは「どん底」である。 ゴーリキーの代表作の映画化である。 しかし見ていて、これは今、見るに値すべきものなのか?と思った。 1936年当時であれば、移動撮影や鏡などを使ったギミックのある 演出は珍しかったのかもしれない。 しかし、今それを見て、どうとも思わないし、 それによって人間が描けているとも思えない。 ネオリアリズモあたりの映画まで、 底辺の人間たちをきちんと描くことは生まれ得なかったのか? 同時期の小津安二郎の「生まれてはきたけれど」(1933年) 「出来ごころ」(1933年)などの映画の方がどれだけ素晴らしいかしれない。 そして黒澤明のまさに「どん底」(1957年)は傑作である。 ルノワールは上流階級のお坊ちゃんだったんじゃないか?と思った。 上流階級を描いたシーンはなかなかに魅力的なのだ。 しかし、全般的には、翻訳の問題もあるので一概にいえないが、 僕にとって退屈な映画だった。 今月のKERAの舞台「どん底」がどのようなものになるのか 逆に、楽しみである。 ▲
by haruharuyama
| 2008-04-06 09:42
| 映画
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