検索
記事ランキング
カテゴリ
以前の記事
2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 最新のコメント
最新のトラックバック
お気に入りブログ
メモ帳 (山下治城)
ライフログ
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
このトライアル公演も今回で8回目。雨がしとしとと降る中、森下へ。 住宅地でもある下町の森下は、温かい香りがする。 雨の降る住宅街が情緒的な感じを強くする。 黒田育世さんが丁寧なおじぎで迎えてくれる。 あの黒田さんにお辞儀をされるなんて! 見ていて、ひれ伏してしまうような踊りを見せてくれるアスリートのような人。 身体全体で感謝したい気持になる。 今回は3部からなる構成。 まずは、矢嶋久美子の「解放」。 最初、前かがみになった彼女は足をすっと伸ばしたまま 前かがみで地面に手をつけそのままの状態で移動する。 静かな時間が流れる。 ある瞬間、彼女の身体は「解放」される。 大音響のパンクミュージックにも似たリフの音が舞台中を包む。 身体を震わせるように彼女の身体は小刻みに揺れる。 突然音楽が止むとともに彼女の身体も静止する。 あとに残ったのは彼女の息遣いと静寂のみ。 そしてまた、彼女は最初と同じように前かがみの姿勢に戻る。 あの激しさは一体なんだったのかという遠い日の「記憶」のように。 続いて二人のダンス。中津留絢香が振付も。 もう一人のダンサーは梶本はるか。 ダンサーの衣装のことについて考えたくなるようなものだった。 上手の前方に立ったダンサーはマフラーをクルクルっと巻いている。 いまどきのマフラーの巻き方。 長いマフラーじゃないとくるくるっと巻くことは出来ない。 そこに彼女は立ちつくしている。 下手後方に脱ぎ捨てられて山になった洋服の山がある。 突然、その山の中からもう一人のダンサーが姿を現す。 動き自体はBATIKらしい激しい動きなのだが、 ここで表現されようとしている世界観がナチュラルでかわいい。 少女性をこのような方向で提示したダンスはBATIKでは珍しいと思った。 それが新たな魅力になっている。 二人で舞台真ん中で踊るのだが、音楽に合わせて、 ダンサーたちが回転したり突然前を向いたりする。 そのスピード感が尋常じゃない! 見ていていつまでも見ていたいというような気持ちになる。 手の動きから発せられるエレガントさと動きのシャープさが同居した魅力的なダンス。 役割が暗転した後に変化する。 これは実は一人の少女を二人で演じているのではないか? そう「私の中のもうひとりの私」? そのような印象のエンディングシーン。 可愛くも美しい魅力的な作品に仕上がった。 いつもレベルの高いトライアルを見せてくれ本当に価値のある試みである。 この日は笠井叡さんがいらしていた。 この後、いつも、飲み物がふるまわれる。 ダンサーたちがセッティングして紙コップに入れてくれたお茶を飲む。 こうして休憩時間になごやかに雑談が進む。 この公演のこうしたファミリアスな感覚が好き。 やさしさとかおもてなしと芸術との関係などについて考える。 BATIKの人やイベントに対する姿勢にはいつも頭が下がる。 ダンスを通じて本当の意味での一期一会ということがわかっているのだろう。 最後に、あの名作「モニカモニカ」を伊佐千明が踊った。 黒田さん以外があれを踊れるのだろうか?と心配していたが、 また違う意味でかわいく優雅なダンスになった。 しかしながら後半になると、かわいさから一転、 アスリートの全力疾走を見ているような感覚になる。 その懸命な姿、あられもない忘我の姿が、我々の前に現出する! 「生きている!」という感覚がそこから生まれて来る。 何も取り繕っていないダンスと身体がそこにある。 その感覚がストレートに伝わってくる。 そうして、またBATIKを見たいという気持ちにさせられる。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-27 11:10
| 舞台
|
Comments(0)
雑誌業界が大変である。(もちろんマスコミ業界全てがそうなのだが。) 広告が入らないと利益がほとんど出ないのが雑誌の世界だそうである。 広告が入らないので制作費が圧迫される? 記事の質が下がる?さらに読者が離れる? オマケがついた雑誌以外は軒並み部数が落ちているらしい。 インターネットの普及と反比例するかのようにそのような現状が起きている。 雑誌の広告費は25%減少した。 そんな時代に、雑誌の雑誌らしい面白さに満ちたものがあるのだ! ということをこの「アルネ」は教えてくれた。 これまでの雑誌の話法にない造りのもの? それとも雑誌の原点はもともとこうしたところにあったのだろうか? 「アルネ」は創刊30号で終刊した。 2009年12月15日と記載されている。 発行は3か月に一回だったから90カ月約、 8年ばかり続いたものだったのね!と今になって知った。 青山にある青山ブックセンターに「アルネ」のコーナーがあり、 バックナンバーが並べられていた。 完売したものもいくつかあるらしい。 その中で終刊号である「30号」と コムデギャルソンの川久保玲さんとの対談が掲載されている「25号」を購入。 読んでいると、雑誌とはこのようなものであったなという思いがふつふつと湧いてくる。 雑誌の面白さとは、ということを再認識させられた。 それは個人の強い想いの反映である。 これが好き、これを紹介したい、この人に会いたいという気持ちが 一杯つまっている紙面になっていれば、それだけで魅力的になるのだなと思った。 そういう雑誌は見ているだけでわくわくする。 いくらアートディレクションされていても、それだけでは限界がある。 アートディレクションされた紙面はもちろん大事なのだが、 それだけの片輪走行では、魅力は安定しない。 花森安治さんがおやりになっていた「暮らしの手帖」や 目黒孝二の強い想いが結集した創刊の頃の「本の雑誌」にも似たような感覚を感じた。 そして大手では新潮社の「考える人」? しかしながら、ここでエクスキューズをするのだが、 これらの雑誌がどれくらい利益を出していたのかは定かでない。 ただ個人的に魅力があった雑誌であるという話である。 終刊号での糸井重里さんとの対談も興味深い。 約12年前に「ほぼ日」を糸井さんは立ち上げられた。 そして、3年後には、二足のワラジとしていたコピーライターの仕事を整理し、 「ほぼ日」編集長の業務に100%かかりきりになっていく。 そうして「ほぼ日」で様々なことを始める。 読み物としての「ほぼ日」はその一部です! という言葉が今後の出版会にも応用できるのではないか? などと思った。 イベントや物販、本の出版などで「ほぼ日」は利益を上げ いまや50名の集団が働いている。 そんな話が短い字数の中に凝縮されていた。 川久保玲さんとの対談はさらに興味深かった。 僕自身、30年近く川久保玲さんのファンでもあるが、 この対談ほど川久保さんの人柄がにじみ出ている文章を読んだことがない。 そういう意味では大橋さんの強い想いの結晶だろうし、 個人ベースでこれだけの雑誌が作れるのだ! ということに驚き、ひれ伏すような気持ちになった。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2010-02-26 07:18
| 読書
|
Comments(2)
戸田恵子の一人芝居。以前、パルコ劇場で上演されたものの再演。 今回は劇場を一回り小さなシアタートラムにし、そこでの上演。 濃密で親密な空気がいい。 今回NV(ニューヴァージョン)ということで、 いろいろなところが少しずつ変わっているらしい。 しかしながら、久しぶりに見たので、細かく「どこが?」 というところがわからなかった。 照明や小道具や衣装の使い方が変化しているのはかろうじてわかった。 ミヤコ蝶々さんの半生記が戸田恵子の一人語りで行われる。 彼女を巡る五人の男性との遍歴が物語の主軸となって進んでいく。 まずは自分のお父さん、そして初恋の和歌山の劇場主のぼんぼん、 そして座長芝居を16歳で初めた漫才の相方やったインテリの兄やん、 その後、吉本興業に入り、お父さんも尊敬する噺家の師匠との恋愛。 師匠との関係は不倫から本妻に至る。いわゆる略奪婚。 しかしながらその師匠とも別れ、若いカバン持ちの男と関係してしまう。 そして、その若い、子犬のような目をした男と漫才コンビを組んでいた。 その子犬の眼を持つ男は何故か女にもてる。 若い女と出来てしまい、二人の別れ話となる。 以前、ミヤコ蝶々が別れ話を繰り出した師匠の前妻さんとの 面会と同じようなシチュエーションが数十年経って自らに向けて繰り返される。 お父ちゃんは、ミヤコ蝶々が一人前にならないのを見ずにあの世に旅立っていった。 今回の戯曲で特徴的、印象的だったのが、 「緊張して舞台に出ていると、見ているお客さんも緊張してまうから、 なーんも楽しいあらへん。リラックスして見てもらわなあかん。 一生懸命演じることがええっちゅうわけやない。」 このことについて、三谷幸喜が朝日新聞の連載エッセイに書いていた。 小沢昭一の舞台などの例を挙げ、緊張感なくゆるりと演じていきながら リラックスした笑いの出せる一人芝居とは? その究極の芸はどこにあるのだろうか? これは、三谷幸喜が描く「芸道物」の傑作である。 「芸」を極めることは本当に難しい。 笑いは「緊張と緩和」である。 とインテリの兄やんが語る。 三谷幸喜の考えていることがいつも素直に戯曲に反映される。 その素直さを48歳まで保ち続けられることが素晴らしい。 戸田恵子も最初は緊張しているように見えるのだが、それも最初の十数分。 観客と演じ手(戸田恵子)が一体化していく! そのための工夫は演出などで凝らされている。 緊張の舞台の中、休憩ですといって戸田が舞台の上で休憩すると思わず笑いがこぼれる。 これこそ、まさに「緊張と緩和」の一番わかりやすい例だな!と思った。 一人芝居で一生懸命にならないこと!これは?志ん生師匠みたいな存在になれ! ということなのか?どこまでが一生懸命でどこまでがそうでないのか? について一生懸命に考えることこそが芸道の本質なのだろうか? 良く、優れた芸人は言う。 もう一人の自分が舞台の袖から客席の向こうから自分の芝居を演技を見ている、と。 その客観的な視点を獲得して 初めて「芸」というものがある種の高みに登っていくのかもしれない。 そんなことを考えた舞台となった。 今回は、ひょんなことから行けなくなった方の チケットを譲っていただき見ることが出来ました。 Fさん、ありがとうございました。 東京は28日まで。 その後、この公演は全国を回る。 戸田恵子さん本当にチャーミングです。 あのTV人形劇「三銃士」のテーマ曲も流れます! ▲
by haruharuyama
| 2010-02-25 07:45
| 舞台
|
Comments(0)
鴻上尚史作・演出。虚構の劇団も今回で4回目の公演となる。 前回の公演がとてもよかったので、また時間を作って見に行った。 高円寺は、今住んでいる場所からだと、ちょうど東西線の反対側になる。 「妙典」から三鷹行きに乗るとそのまま高円寺に着く。 そこまでの車内は読書スペースとなる。 足元から緩やかな温かい空気が流れ、気持ちのいい空間となる。 あとは集中力次第でどこでも自分だけの空間に。 そのためには中近用のメガネが必要。 そのメガネをかけると近くしかピントがこないので 相対的に集中する範囲が限定されてしまう。 高円寺駅前の「富士そば」で天ぷらそばを食べる(380円)。 「富士そば」の温かい蕎麦が好き。 「ゆで太郎」の温かい蕎麦も好き。 「小諸そば」は冷たい蕎麦がいい。 三鷹の駅中にある立ち食い蕎麦もいい。 そして立ち食い蕎麦の個人的至宝は初台駅前の「加賀」。 ここのかき揚げ蕎麦は本当においしい。 立ち食い蕎麦屋さんがどこにあるのかの、 優れたサイトがあるといいのになといつも思う。 劇場に入ると鴻上尚史さんがいらした。 客席には「虚構の劇団」専用?の座布団が敷かれてありびっくりした。 出演者は10人。 監視カメラがテーマの演劇だけあって舞台の様々なところに 監視カメラが設置してある。 そのカメラは客席を映しだし、ロビーにも監視カメラが。 最近、自宅のマンションでも、エレベーターや人気の少ない場所に 監視カメラが設置されるようになった。 人の眼がいきわたらなくなった、いや、人の眼が孤立していった 時代の象徴のように監視カメラが増えていく。 新宿歌舞伎町にある監視カメラの映像は新宿警察につながっており、 渋谷センター街を中心に設置されている監視カメラは 警視庁と渋谷警察につながっている、という説明から舞台は 本作の物語に移行していく。 舞台の中心は大学の構内の広場。 そこで演劇サークルの面々は実際に稽古などをしている。 その広場に監視カメラが設置された。 「監視カメラを監視する会!」のメンバーたちがやってきて 監視カメラに向かってシュプレヒコールをする。 警視庁で監視カメラを監視する男の妻(小野川晶)がある時、 渋谷の監視カメラに映し出される。 妻はどこに行ったのか?その謎ときがベースとなり、 鴻上さんらしい、熱き想いと学生のエネルギーに溢れた、 若き演劇が繰り広げられる。 ああ、これは「第三舞台」だ!と思う。 鴻上さんたちが学生時代に始めた「第三舞台」の あの感じが蘇ってくる。 ダンスシーンももちろん挿入され、魅力的。 ここ数年、ダンスと演劇の中間みたいな舞台が多く出てきたが、 その原点をみるようである! そして、演劇的な解放感と自由さに満ちており、清々しい気分になる。 カタルシス! である。虚構の劇団の特徴はそこにある。 それを、彼らのような若手の俳優たちが懸命に演じるところに この劇団の意味はある。 若いというだけでエネルギーが溢れだし、 そのエネルギーを見ているものたちが受け止める。 カーテンコールは、年齢層の幅の広い観客からの 温かい応援歌のように、いつまでも続いた。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-23 07:30
| 舞台
|
Comments(0)
数年前の再演だそう。 ペンギン・プル・ペイル・パイルズの倉持裕が脚本を書いている。 倉持さんの世界が色濃く出ている。 夫婦の微妙なずれを描いている。 そこから、メロドラマ的な様相を呈してくる。 倉持さんなのでビリー・ワイルダーのようなロマンチックコメディにはならない。 日常の世界がどことなく奇妙に歪んでいる。 まるでシュールリアリズムの絵画のように。 今回のテーマは絵画ではなくコミックである。 マンガと言った方がいいだろう。 この国で目覚ましい進化を遂げ、どの国も追いつけないところまで 日本のマンガ文化は進化してきている。 進化の仕方が速すぎたが、いまようやく世界が マンガを読み始めるようになり、マンガ本の翻訳本が出版され、 マンガのあの縦書きの本と同じように右から左へ読んでいくという 駒割りが世界的に定着しているそうである。 そして、こうしたマンガを読み続けて来た日本人は マンガを読むスピードが異常に速い。 画を感覚的に捉えつつ、セリフを読み、効果音を感じるように読み進めていく。 パラパラとめくるスピードが速い人は 本当にものすごいスピードで読み進めることが出来る。 本作はある夫婦のマンションが舞台である。 上手に一部屋。廊下を隔てて、下手にも一部屋、 こちらは玄関から近く、キッチンもある。 このリビングで「書き方」を妻(粟田麗)が教えている。 ペン習字とでもいうのだろうか? 最近自筆で文字を書くことが極端に減っており 人の手書きの文字を見るといろいろなことを感じる。 パソコンでこうして文字を紡ぎだしていっても、 その個性は文体以外にはわからない。 夫は冴えないサラリーマンをしている男(谷川昭一郎)。 ある漫画家の男(戸田昌宏)が谷川にマンガの描き方を教えに 家庭教師にやってくるという設定。 妻はその男が来るようになることに強く反発する。 谷川は、何故そこまで反対する? と言って夫婦の間に奇妙なズレが起きる。 同時に、マンガのコマワリのことについて戸田は講義をする。 実際のマンガのコマのようなものが降りてきて、 その中で実際に出演者がマンガの登場人物を演じて コマ割りを指導していくシーンがとても面白かった。 物語をわかりやすくどのように伝えていけばいいのか? ということの基本中の基本みたいなものが わかってなかったという谷川の設定がいい。 そのわからなさが栗田との間に微妙なズレを作っていくのだろうか? 栗田麗が魅力的である。 小西真奈美系の顔立ちの彼女の端正な中にある色気がこの舞台で醸し出される。 大人のお色気をそこはかとなく感じさせる品のいい小品となった。 演出は世田谷ジェッツと言う。 劇団員の複数の方が演出を担当していると聞いた。 イラストレーターのなんきんが漫画家の「すごろくかるた」の役で出演している。 独特な存在感がある。イラストの世界とはまた違う雰囲気。 なんきんが舞台でリアルタイムでイラストを描くシーンがある。 迷いのないペン運びを見て、 たくさん描いている人らしいなと思った。 22日まで。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-21 10:31
| 舞台
|
Comments(0)
花沢健吾のマンガが原作となっている。 本作を見に行った理由は、脚本・監督がポツドールの三浦大輔だったから。 三浦さんが、映像作品をどのように作っていくのかに興味があった。 本作は、とても情緒的で青春まっすぐな素敵な映画になった!と思った。 人が人を極端に追い込んでいくみたいな 舞台で行われているものとはまったく違う世界が 映画では定着される。 テイスト自体はポツドールらしさというものはあるのだが、 その仕上がりは全く違う印象。 映像とは生のものを幻想に変えていく効果が強いのだろう。 ライブエンターテイメントの録画されたものを見ると 印象がまったく違って見える。 そこで行われていることが、あそこで行われていることに変換されてしまう。 今後3D映画が普及したとしたら、その間に立てるような メディアになっていくのだろうか? 200円入れてフィギュアの入ったおもちゃを出す 「ガチャガチャ」を作るメーカーに勤めている男が主人公。 その男は銀杏BOYSの峯田和伸が演じている。 カラオケで歌を唄うシーンがあって随分うまいなあと感心して見ていたら、 後でそういうことだったのね、ということがわかった。 渋い脇役たちが回りを固める。 会社の社長にリリーフランキー。会社のアル中の先輩に小林薫。 年増のソープ嬢役でYOUが出演している。 相手会社のライバルは松田龍平。 峯田の同僚の女の子は黒川芽以が演じる。 黒川のプクプクとした身体がいい。 三浦は身体のことをきちんと意識して映画を作っているのだなということが良くわかる。 それを意識したカットが魅力的に撮影されている。 身体を感じる日常とは要するにセックスと暴力が中心となる。 三浦はその行為をありきたりの型に押し込んだりはしない。 身体ってこうなんじゃないの?ということを真剣に考え向き合っている気がする。 それは、彼が長く演劇の世界でセックスと暴力をテーマにしたものに 向き合い続けてきたことと無縁ではないだろう。 ストーリーは単純と言えば単純。 峯田が黒川に惚れ、黒川もという展開、がある時点で崩れる。 黒川はライバル会社の男に心が奪われ、結局は捨てられる。 峯田は小林の助けを借りつつ 1月31日に松田龍平の会社に決闘を挑みに行く! と書くと勇ましいが、実際は・・・。 「見事な醜態エンターテイメント!」 と映画の宣伝文句にあるのが納得。 峯田を見ていると、自分事のように感情が移入されていく。 青春映画の一つの方向の傑作。 あの頃ってそうだったよなあ!という甘酸っぱい恥ずかしさがこみあげて来る。 本当の意味で、恥ずかしい映画となった。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-20 10:25
| 映画
|
Comments(0)
ネルケプランニングプロデュース公演。 舞城王太郎原作、劇作はデス電所の竹内佑。 演出はハイレグの河原雅彦。 河原雅彦演出が光る! 昨年の「齊藤幸子」も素晴らしい出来だったが、 この河原の演出の冴えはどうだろう? 今回の公演も素晴らしいものに仕上がっていた。 円形劇場をうまくつかった円形が土手状になっており、 その土の中から俳優たちが首から上だけを出して演じる。 面白いのがこの丸い土手全部が回り舞台になっており、 俳優の芝居をときどき別の角度から見ることが出来る。 とにかく本がいい。 奇妙な話ではあるが、論理的に成立するよう物語は構築されれている。 その論理だったストーリーを解体してそのパーツをセリフに取り入れたり、 シチュエーションで見せたりしている。 溝畑淳平がいい。彼目当ての女性ファンも多く見に来ていた。 出演者は男ばかり。 出演予定だった板尾創路が体調不良のため、急遽、河原雅彦自らが演じていた。 そして、河原演じるその役がなかなかいい。 草野球の野球部のキャプテンなのだが、 決して野球がうまいからとか責任感が強いからとかじゃなくて なんとなくキャプテンになった男が、 ある瞬間、頼もしい人間に見えてくる。 ある、ばかばかしいお遊びがきっかけになって 誰かを首まで埋めてみようという話になった。 中学の臨海学校で首まで砂浜に埋められたことがあるが、 肩まで埋まってしまうと自分では身動きできなく どうしようもないということが身体でわかった。 あの時の絶望感はいまだに記憶に残っている。 本当に、どうしようもないのである。 今回の首までイキウメは森の中で行われる。 マンガ「わにとかげぎす」で男を森に放置するシーンがある。 男は全裸にされてロープで木の幹にくくられているのだが、 その男に甘い蜂蜜のようなものを塗りたくる。 そうすると男のところに森中にいる、昆虫や小動物が集まってきて 男の皮膚とともに食い破られ肌がえぐられていくという壮絶なシーンを思い出した。 このNECKでもまさに同じ。 男は額から血を流している。 血のにおいで虫たちや小動物たちが集まってくるだろう。 首から上の人間はかなり無防備である。 唯一の動きとしては首を少し動かすことと、息を吹きかけることぐらいしか出来ない。 そういった状況なので、埋められた状態で交わされる会話が ばかばかしく面白いのだが、身体に直結しているのでリアルに感じる。 そんな感覚。 拘束された中から何かが起きるとか起きないとかいうことが 極めて演劇的な感じがする! 溝畑淳平と相武紗季、栗山千明、平岡祐太などの出演で「NECK」は映画にもなるらしい。 舞台とどのように違うのか楽しみ。(8月公開!) この舞台、さらに重要な人物が出てくる。 どこにも明らかにされていないがパンフレットを事前に買うとわかる。 そのHさんの存在がかなり重要であるが、これは劇場でのお楽しみ。 7000円以上の面白さは確実にあります。 1時間50分の良質なホラーコメディ。24日まで。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-19 07:59
| 舞台
|
Comments(0)
米国人、ダグ・ライト作。2004年にピューリッツアー賞、トニー賞を獲得。 米国では良く知られたものなのだろうか? 燐光群では、こうした米国の現代戯曲をたくさん翻訳上演してくれており、 現在どのような演劇がNYなどで行われているのかを知る指針となる。 近い将来実際にNYなどでこうした舞台を見てみたいものである。 タイトルは「私は私自身の妻である」どういう意味だ?と思う。 この舞台の主人公は、「異性装者」と呼ばれる、 異性の服を好んで着る男性の独白が全編を占める。 米国では、この舞台、一人芝居として行われたそうである。 ノーマルではない性癖を持った男が戦前から戦後にかけて旧東ドイツで暮らしていた、 その男の独白の記録である。 作家である、ダグ・ライトは実際のモデルとなった方に 長時間のインタビューをしてこの戯曲をまとめていったそうである。 ナチス時代に捉えられて生き残ったユダヤ人たちに 延々とインタビューしているドキュメンタリー映画がある。 「ショアー」というタイトルのそれは様々な人のインタビューを 9時間という時間にまとめている。 ナチス時代の口述の記録である。 純粋主義を唱えていたナチスは異端なものを排除する。 そういう意味では、ここでの主人公も同性愛者で異性装者という意味では 明らかに異端である。 同じ嗜好を持つものが集まる場所が必ずあるのだなということも、 この舞台を見ていてもわかった、 それはどの時代においても、決して表に出ることはないのかもしれないが アンダーグラウンド的にそうしたサロンが確実に発生するのだなと思った。 米国では一人芝居として上演されていた舞台を 坂手洋二は16人がかりで一人の人間を解き明かしていく。 一人の人間ですら多様であり、16通りの自分がいるという解釈も成り立つ。 そのことがここで実験的に行われている。 とはいえ、坂手洋二はこの手の技法を使いながら 群像のセリフ劇に仕立てたものは多く、 今回はそれがたまたま一人の人間の独白だったというのに過ぎない。 一人の人間が語ることがナチズム時代の旧東ドイツの歴史に重なっていく。 この男性は限りなく純粋な人である。 よわよわしい争いを嫌うゲイの男たちと対比的に描かれるのが、 逞しく彼らに立ち向かっていこうとするレズビアンのものたち。 16人で演じる主人公は老若男女であり、 その全てがこの舞台の主人公であると思えてくる。 吉祥寺シアターのいつもの客席が全て取り払われており、横使いで舞台が作られていた。 この光景どこかで見たなと思ったら、 今は亡き、森下のベニサン・ピットを思い出していた。 客席のところどころに緑色の丸テーブルが置いてある。 そこには主人公の10歳ぐらいだった頃の写真が飾ってある。 動物園で撮影されたもの。 純粋無垢な少年は両手に子供の虎を抱えている。 虎はいまにも噛みつきそうな気配をも見せながら、 少年はそうなっても構わないというような表情とともに カメラに向かってやさしく微笑んでいた。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-18 07:38
| 舞台
|
Comments(0)
売れているそうである。 どこの本屋さんにいっても大きなスペースをとって平積みされている。 内田樹がこうして売れてくれるのは本当に嬉しい。 こんなにわかりやすく複雑で難解で一筋縄ではいかないことを 僕にもわかる言葉で言い換えてくれる。こんな人、なかなかいない。 内田樹はこのコトこそ「辺境」の人たちが獲得してきた、 いや我々日本人が獲得してきた特質であると言い切る。 その言い方が心地よい。 第1章で世界を大雑把に語ることの良さについて内田樹は触れており、 その発想の余りの面白さに驚く! マルクスは世界をこう規定したと内田は語る。 「いっさいの社会の歴史は階級闘争の歴史である。 自由人と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドに属する親方と旅職人 要するに搾取する側とされる側のひとびと」壮大な大風呂敷と内田は語る。 確かに「これまでの一切の社会の歴史」と語っておきながら 挙げている例は四つだけ!こ の大雑把さが世界の見通しを良くするとはよくいったものだと思った。 内田は日本の環境的地理的成り立ちとそこから発生した言語の構造が 日本的なものを生み、そのことを全てひっくるめて 日本人は辺境的な国民であり民族であると結論付けている。 もちろん、大雑把であることは重々承知の介なわけで、 それでもあえてこうしたことを言うことの意味を考えることが この「日本辺境論」を読むという意味なのではないか? と、考えてみたい気分に襲われる。 そういう意味では知的好奇心を全方向から刺激するものであり、 それはある意味の啓蒙書でもあるのかな?とも思う。 マンガに対する記述も面白い。 日本で高度に発達したマンガはいまやマンガという独自のジャンルを獲得しており、 そのマンガの構造。 右から左へ読んでいく構図はいまや世界的になっている。 そして、音と意味と絵が一体になったマンガを読み解くリテラシーは 日本人は圧倒的に高いのだということを養老先生の言葉などを引用されながら 進めていく手腕はなるほどな!と思った。 前半の部分で丸山真男先生の言葉を引用して語る、日本の独自性も興味深い。 外から何らかのものが(文化であれ、権力であれ)やってくると 辺境人としてはとにかくそれを受け入れひれふし、 咀嚼し自らのものにアダプテーションしていく。 その技術というかその性癖が 日本を雑多なものを受け入れながら変容していける、 柔軟性の高い民族になっていった秘訣なのではないかと考える。 また、本書での一番のキモは、「機」の思想にあると内田先生は言う。 内田先生が「合気道」を長くやってこられている経験値と無縁ではない。 ここで「無敵」という意味について内田先生は語る。 敵を意識していき、突き詰めると最後の敵は己自身になる。 いやそうではない無敵になる瞬間がある筈だ! そのような考え方が出来るのは辺境人である日本人だけである。 但しユダヤ人を除いて。 本書を書こうと思いたったきっかけは、 内田先生が「私家版・ユダヤ文化論」を書いたからということが あとがきに書かれておりこの二冊を並行して読むと さらに面白い知見が見えてくることと思われる。 最後に少しだけ本文から引用する。本書を概観するのにいいかと思われる。 華夷秩序の中の「中心と辺境」「外来と土着」「先進と未開」「世界標準とローカル・ルール」 という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸にして、「現実の世界を組織化し、 日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように」してきた。 その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-17 07:22
| 読書
|
Comments(0)
久しぶりに成城学園前で降りる、駅前が再開発されており 大きなビルが駅の上に出来ていた。 北口と南口は電車の地下化によりツーツーで行き来出来るようになっていた。 数年前に完成したようである。 小田急線の地下化、高架は確実に進んでいる。 下北沢駅ももうすぐ様子が変わるのだろう。 僕は、いったいいつ頃からこの成城学園前駅に降り立っていないのだろうか? と思った。 駅から歩いて数分のところに世田谷区の役場みたいなところがあり、 そこに成城ホールがある。 昨年の5月に新しくなったそうである。 ここで、談春の「アナザーワールド」という独演会が毎月行われることになったらしい。 3日間連続でやってくれるので、多少チケットが取りやすいのだろうか? 今回はたまたまSさんにチケットを譲っていただき行くことが出来た。 成城ホール自体はこじんまりとした落語を聞くのにはとってもいい規模のホール。 横浜のにぎわい座の1階部分だけみたいな? ゆったりとした座席になった鈴本演芸場みたいな? 脚本家のMさんにバッタリと会う。 実は昨日仕事場で、初めて会った方。 連日お会いするとは、奇遇である。 映画監督であり、ディレクターのYさんが隣にいらっしゃる。 5月に公開される映画のお話をする。 「パーマネント野ばら」西原理恵子原作の映画。楽しみ。 先週、初号が完成したそうである。 この「アナザーワールド」は 談春が、実験的な挑戦的なネタに挑もうという試みだそうである。 先月は「鰍沢」をやったらしい。 前座などなく、いきなり談春登場。 様々な落語に関する話をしてくれる。 僕が落語を聞き始めるずいぶん前の話。 志ん朝師匠と談志師匠が高座に上がったときの話を語ってくれる。 そのときに、志ん朝師匠がおやりになったのが、 この日聞いた「火事息子」。 談志師匠がそのとき、 この話はもう一つ何かが足りないんだ! みたいなことを志ん朝師匠に話しかけたという。 志ん朝はそれを受けて、私もそう思うんですと。 この二人の掛け合いの緊張感の本当の意味が 僕は良くわからなかったが、相当なエピソードだったのだなと 談春の語り口を聞いて想像した。 やんちゃな息子が勘当され火消となり全身にくりからもんもん(刺青)を施した風体で、 両親に再会するという話。 ただそれだけ、でその深みはいったいどこにあるのやらと思いつつ、 こういう話なので、あと一つが足らないというエピソードが語られたのだな?と思った。 では、何故、そうした話があり、それを噺家が演じるのか? ということも興味深い。 たいして面白くもない噺をやるというのは、 余り面白くもない企画を受けたディレクターの気分にも似ているのだろうか? Yさんとこの話をすればよかったと今になって悔やんでいる。 仲入り後、「三軒長屋」。 この話をちゃんと聞いたのは初めてだった。 へええ!こんな話だったんんだあ!と驚く。 クリエイティブディレクターのFさんが「三軒長屋」は長いけど面白いねえ。 とおっしゃっていたのが良くわかった。 大体設定が可笑しい、 喧嘩早い鳶の親方の長屋、 その隣が質屋の旦那を持つお妾さんの部屋、 そして、一番端は、剣術の先生の部屋でけいこ場を兼ねているという。 この設定で面白くならないわけがない。 談春のやくざっぽい性癖がとてもうまく機能する。 やんちゃな会話をしている談春は、自身そのものじゃないか? とすら思えてくる。 そうして話芸のテンポの良さと間のうまさにどんどんと引き込まれていった。 ありがとうございました。 ▲
by haruharuyama
| 2010-02-16 07:24
| 舞台
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||