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師走の月もあと10日と少々という日に、 三鷹市芸術文化センターにさん喬を聞きに行った。 今回の独演会は年末らしく「芝浜」をやるということがチラシに書かれていた。 三鷹の商店街は年末らしく並木に電飾が施されていた。 三鷹という街は文化的な感じと都会的なところと 少し郊外の街であるところがうまくミックスされている。 それが独特の風情を作りだしている。 隣の吉祥寺の華やかさとは一線を画した場所というのが、 住人もゆっくりとできるんじゃないだろうか? 妙典駅から東西線の三鷹駅行きに乗ると終点まで1本。 ずーっと電車に乗っていられる。 ちょうど1時間かかるのでまとまったものを読むのに丁度いい。 まずは、開口一番、小んぶの「初天神」。 子供を連れて縁日に行くというもの。 みたらしだんごのくだりが演者にとっては面白いところだろう。 続いてさん喬登場。「天狗裁き」と「掛け取り」。 夢の話と年末の取り立ての話をここで持ってきたのは 「芝浜」への助走なのか? 「掛け取り」の浄瑠璃や歌舞伎、そして、三河漫才に至るまで 様々な芸をさん喬師匠がやった。 仲入り後、ニューマリオネットさんというおじいさんが操り人形を披露してくれた。 獅子舞や会津磐梯山、安来節などに合わせてふりをつける。 この日は鳴り物で二挺(?)とさん喬は呼んでいたのだろうか? 三味線を弾く人が二人来ており、出囃に厚みがある。 また「掛け取り」では芝居の部分に効果的に音楽が使われていた。 この日の環境によって機転を利かせたネタだったのだろうか? そして「芝浜」である。さん喬の描くおかみさん像がいい。 夫のことを思った無私の愛情がこぼれ出るようなかみさんが描かれている。 そして魚やの男はそのかみさんの愛情に愛情を持って応える。 一人で、抱え込んでいたかみさんの気持ちに寄り添う。 そんな関係がゆったりとした時間の中できちんと描かれていた。 時計を見ると開演から3時間近くが経っていた。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-20 07:26
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僕は、そんなに熱心な毛皮族のファンではない。 しかし、江本純子のファンである。 彼女の切れ味のいいセリフと論理的な思考から、 あえて逸脱するような馬鹿げたことを 本気でやっている姿勢に頭が下がる。 理科的な情緒みたいなものを江本純子という個人から感じる。 そして、同時に町田マリーという女優の存在抜きには毛皮族は語れない。 可愛い顔をして大胆、見た目は呆けたように見えるのがまた個性。 白痴美的と敢えて言おう。 そして柿丸美智恵などがきちんとギャグを固める。 この数年の江本作品はどんどんと自由になっている。 はちゃめちゃながら、通底する何か批評的なものがあり、 大きくぶれたと思っていてもまたそこに戻ってくる。 その絶妙なバランスが江本純子らしいと言えばらしい。 彼女はものすごく頭がいい。 結構アバンギャルドなことを言ったりしていても 時々ふと客観的にものごとを見る自分がいてそこに戻ってくる、 というようなそんな感覚。 江本はいったいどのようにして本を書いているのだろう? 今回の公演を見る前に 演劇ライターの徳永京子さんがツイッターで本公演について つぶやいているのがとても印象に残っていた。 5回に分けられて書かれたものを引用する。 毛皮族『小さな恋のエロジー』感想① 心の中で何度も「かっこいい!」と叫んだ。 毛皮族が作・演出の江本さん個人でなく劇団員も含めての すげぇ集団だということがよーくわかった。 その意味で10周年記念公演の名にふさわしいバカ騒ぎ。 ストーリーは完全に破たんしてて散漫。でもあえて言う。OK! 毛皮族『エロジー』② 過激エロ系演劇(と、とりあえずカテゴライズします)の宿命的な弱点は、 一時のポツドールもそうだったけど、 客席にエロのみ期待のお客さんが集まってしまうこと。 彼らは、舞台上の人が何を演じているかなんて、ほとんど関心がない。 毛皮族『エロジー』③ 簡単に言ってしまえば「3000円台できれいな素人のおねえちゃんの おっぱいが間近で見られる」から集まるのであり、 でも劇場の客席にいれば演劇を観に来たという言い訳が立つのであり、 そのねじれた劣情は一般の観客の精気を奪い、 やがて舞台上の空気も澱ませる。 毛皮族『エロジー』④ 江本さんは間違いなく早期にそれに気付き、どう乗り越えるかを ずっと考えてきたと思う。それは「どうすれば賞を獲れるか」と同じくらい難しく、 孤独という意味ではそれ以上にハードな戦いだろうけど、 毛皮族はこの作品で完全な勝利を収めている。毛皮族が選んだ道は、 毛皮族『エロジー』⑤ エロと笑いの双方向をド真剣に攻め込むこと。 志村けん並みの変なポーズとニプレスダンスを、 妙齢でスタイル抜群の美人女優が、何も惜しまずひるまずやりきるかっこよさ! けもの道を完走した彼女達のパワーが、客席の劣情を護摩のように昇華する。 21日(火)まで、駅前劇場。 僕自身が、この文章に惹きつけられ公演を見に行くことになった。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-19 09:28
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トナカイを数えるとはどういうことか? クリスマスイブのお話であった。 クリスマスイブにクリスマスケーキを食べて、 クリスマスを祝うという極めて日本的な習慣に対して、 懐疑的な人々が集まってひたすらトランプをやるという日を描いた舞台。 土田英生はいわゆるマスオさん的な状況。 上から目線の妻、亀井妙子からいつもイヤミを言われながらも 我慢して暮らしている。 その姉を快く思わない妹、山本麻貴がそんな姉の夫を見て 関係を持ってしまう。姉へのあてつけか? 土田はそのことで妹のことに想いが移って行く。 集まってくる男たちの会話はいつものMONOらしい会話である。 細かいところを気にしながら小さく小さく気持ちが移りずれていく。 そのことを描かせたらMONOの右に出る劇団はいないのではないか? そしていつもの奥村泰彦が喋る愛知弁(三河弁?)なのだろうか? の方言がMONOらしさを加速させる。 土田英生が愛知県出身なので多分、そうだろうが、 MONOの言葉はそれとも違うまた独特の別のものとも言えるような言葉となっている。 そこで、みんな仲良くトランプゲームをやっていたと思ったら。 子供の頃の発言や行動の不満がこの場所で爆発する。 ずーっと思っていたことなのにいままで何も言えずにいたということはある。 それがあることをきっかけに爆発する。 一方が話し出すともう一方がさらに語るという連鎖が生まれる。 不幸の連鎖、憎しみの連鎖が始まる。 そして、この連鎖は誰にでも起きうることであるということがわかる。 もっとも楽しい日だと思われているクリスマスイブの日に もっとも楽しくないことが次々と起きる。 その奇妙なドタバタを描いたMONOとしての異色作が出来あがった。 シュールで奇妙なブラックさをたたえた笑いを描くところは どこかナイロン100℃を思い出させる。 ナイロンは畳みかけるように笑いを引き出していくのに対して、 MONOの笑いは引き算のよう。 なんだかわけのわからないうちに自然と奇妙な関係が出来、 それに直面した男たちが戸惑う。 その戸惑いの「間」にMONOの持っているお笑いの大きな特徴がある。 決して大笑いしないかもしれないが、その独特の笑いを持っている劇団は多くない。 「クマのプー太郎」中川いさみ著(@小学館)にも似た シュールで引き算された笑いを描ける唯一の集団なのかもしれない。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-19 09:22
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スウェーデンの劇作家ストリンドベリの脚本。 1849年生まれ1912年生まれ。 お隣の国、ノルウェーのイプセン(1828-1906年)と同じ時期の作家。 先日、ノーベル賞の授賞式が報道されたがノーベル賞の授賞式は スウェーデンで行われるものとばかり思っていたが、 ノーベル平和賞はノルウェーで行われていると知って驚いた。 隣の国でスウェーデン人だったノーベルの授賞式が行われる。 芥川賞は日本、直木賞は韓国で授賞式が行われるような? というとあまりにも比喩が唐突かもしれないが、それくらいの驚きがあった。 アカデミー賞のアニメ部門だけカナダで行うみたいな? イプセンは劇作家として有名だがストリンドベリはどうなのだろう? ストリンドベリは3回離婚している。 というのは当時では、珍しい部類に入るのだろうか? それともあるクラスの人ではそれも普通のことだったのでしょうか? 本公演を見に行った主な理由は二つあった、 一つは毬谷友子が出ていること。 こんなに魅力的で印象の強い女優はそう多くない。 彼女は宝塚を退団した後、ほぼ舞台の出演のみを続けている。 映画やテレビドラマに出ているのを見たことがない。 1985年に退団した後、1987年に ロイヤルシェイクスピアカンパニーのエイドリアン・ブルーに 師事したことなどをとってみても 彼女の舞台に対する強い執着をものがたる。 もう一つは台本を作ったのが木内宏昌であったこと。 彼の名前の記憶はTPTに負うところが多い。 「青空美人」をプロデュースしていると書いてあるが 多分、見たことがない。 TPTでの彼のかかわった翻訳作品がいくつか印象に残っている。 「皆に伝えよ!ソイレントグリーンは人肉だと」、 「ミステリア・ブッフ」など。 海外の翻訳劇で強い印象に残る作品に仕上げる手腕はどこにあるのだろうか? この二つの大きな理由とスケジュールがうまくはまったので 幸運にも見に行くことが出来た。 毬谷友子と谷田歩の二人だけが出る舞台。 RED/THEATREに中世のお城の地下室みたいな部屋が しつらえられている。 妻とつつましく下僕として生きていたジャンを誘惑するジュリー。 自らのさみしさを埋めるように年下の下僕を誘惑する。 そして二人は関係する。 二人は外へ逃げ出そうと画策する。 この時代、かなり衝撃的な内容だったのではないだろうか? 徳川幕府の時代に、例えば、篤姫が家来の男を誘い出し 江戸城内で関係してしまい、一緒に逃げるというような感じの物語? というと曲解しているだろうか? 劇中、とてもセクシュアルなシーンが続く。 テレビドラマで評判になっている「セカンドバージン」を思い出す。 しかし、ストリンドベリの本は19世紀末の話なのだ。 そのインモラルな関係を描いたのは、 あまりにも彼が抗争的な態度だったので祖国を追われスイス、フランスなどで 避難生活を送っていた1988年のことである。 明治維新のころにこうした色っぽい話が書かれていたことは十分に刺激的であり、 その戯曲をまた現在に上演するという試みが面白い。 兵庫県立芸術文化センターの製作。 2005年に出来たここでのこれからのプロダクションが楽しみである。 ピアノの使い方が印象に残った。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-19 09:17
| 舞台
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井上ひさしの追悼公演が続いている。 第91回公演は群読あるいは朗読劇という手法を通じて 井上ひさしのテキストの真髄に迫るもの。 井上ひさしの言葉で有名な言葉に「一語一句変えないで読んでください。」 という言葉。まさに血のにじむような努力をして井上ひさしは言葉を紡ぎだす。 そして、それを俳優が声にする。井上ひさしだから言えた言葉だと思いひれ伏す。 自分に置き換えたとしたらどうだろう? 言葉に対してそこまで真剣になれるか? 一語一句変えてはいけないと責任をとることの重さも同時に感じる。 しかし、井上ひさしはその全てを引き受けていた。 栗山民也が著書「演出家の仕事」(@岩波新書)の中で 井上ひさしが戯曲を煩悶しながら執筆しているシーンに立ちあう描写があった。 それくらい真剣に物事に物語に言葉に向きあっているのか? とその部分を読んでいて鳥肌が立った。 今公演は、二作からなるもの。 地球と水について井上ひさしが日頃思っていることを 言葉にした「水の手紙」というもの。 水の惑星と言われている この地球についての彼の想いが言葉に詰まっている。 群読というのは、テキストを手に読むものではなかった。 セリフのように語らず彼らは役を演じない。 コロスのように次々と若手の俳優たちが語る。 様々な国の様々な事象がここで語られる。 「みずものがたり」(@ダイヤモンド社)というのが出版されているが、 そこに書かれているようなことがここでは群読を通じて語られる。 若い俳優が群舞ではないが一斉に動く。 俳優が動くことで空気や場面などが変化していく様が面白かった。 このあと、ゲストが日替わりで井上ひさしさんに追悼文を読むというのがあった。 この日は佐藤B作さん。 稽古場をやっと持てるようになったくだりがあり井上先生に命名をお願いしたら 「東京ヴォードヴィルショウ」のビルだから、「ヴォードビルビル」はどうですか? という話があったらしい。 佐藤さんはそれはさすがにと却下させていただき「星あかりビル」 という名前を付けたそうである。 井上先生の戯曲「國語元年」から引用されたそのビルで 佐藤さんたちは日夜喜劇を作り続けている。 佐藤B作さんが初めて出演させてもらった 井上作品が「國語元年」だったと聞いた。 劇場はシーンと静まり返った。 「少年口伝隊一九四五」は広島の原爆投下直前から被爆して 三人の口伝隊の少年が原爆症でなくなるまでの数年を描いたもの。 朗読劇なのでセットなどはなく、小学校の木の椅子が並べられ、 その奥に、ギター演奏の宮下祥子が座ってギターを奏でる。 被爆した広島の街の様子が彼らの言葉でなまなましく伝えられる。 そしてそういった状況でも生きよう、とか楽しもう、情報を伝えようという 人間の気持ちが確かにあるのだということが描かれる。 輪転機がぶっこわれてしまった中国新聞社が被爆した少年たちを雇って、 街角に行って情報を口で伝える。 かわら版屋の口上のように。 「預金通帳がない人でも名前を言って預金額を言っていただければ お金を下ろすことが出来ます。 ただし、それを証人するひとが二名必要です」 と 哲学者の先生はそれに対して、 二名の知人さへいなくなったひとはどうすればいいですか? と広島の言葉で語る。 どうしようもない現状を受け入れながらたくましく生きている 子供たちもやがて原爆症で亡くなる。 井上ひさしはただたんに事実をまとめ物語に構築していくだけで こんなにも深い反戦の主張と人間に対する理解を描きだす。 広島弁で語られているのがさらに哀愁をそそる。 「父と暮らせば」と並ぶ広島ものの傑作です。 「ありがとありました」というセリフを、 思い出して泣けて来た。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-17 08:32
| 舞台
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とにかく本が面白い。良くできている。 世代の違う4人だけの男性俳優がきちんと稽古をして完成し 密度の濃い舞台を作り上げた。 上から大谷亮介、井之上隆志、小林正寛、土屋裕一。 舞台ではそれぞれ45歳40歳35歳30歳というように、 ちょうど5歳ずつ年の離れた兄弟という設定。 それも異父兄弟である。 彼らが、母親が長く住んでいた海の見える 高台の一軒家「烏賊ホテル」に集まってくる。 何故「烏賊(いか)」なのか? は後ほど劇中で解き明かされる。 そこに母親から手紙をもらった四人兄弟が同じ日の午後に集まってくる。 集まった、異父兄弟たちはそこで、お互いのことを、 会話を通じて知ることとなる。 母親が自分の父親と出会ったときから、 生い立ち、そして現在に至るまで。 四人のキャラが書き分けられておりとても興味深い。 どの人生もありえるな!と思えてしまう。 長男は、大学の英米文学の教授。スーツに蝶ネクタイ。 次男はチンピラだったが、更生して真面目に不動産屋をやっている。 三男は埼玉県警の刑事。 四男はホストクラブで働いている。 劇作は岡本蛍。女性が書いているというのが驚き。 男性目線で描かれているんじゃないだろうか? と思えるところがいくつもある。 岡本は、スタジオジブリの映画「おもひでぽろぽろ」の原作者でもある。 演劇作品だけに、激しい事実などもさらっと描かれている。 彼らの母親の遍歴を実写の映画などにしたら壮絶なシーンの連続となるだろう。 これはこれでまた全く面白い映画に仕上がるんじゃないだろうか? 本作は2002年TOPSで初演されたそう。 西山水木の演出はオーソドックスで丁寧。 プロデュースをしている有本さんも女性。 女性たちがこうして男優たちだけの芝居を作る。 男優の言葉を通じて女の生き方とか母親の生き方みたいなものが見えてくる。 逆説的なのかもしれないが、この手法は成功している。 客席は温かい笑いとやさしいまなざしで溢れていた。 本公演は冬の劇場19「日本劇作家協会プログラム」。 ということはこうした優れた戯曲をいくつも上演してきているのだろう? 座・高円寺のような公共劇場が果たす役割は これからますます大きくなっていくのかも知れない。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-15 08:30
| 舞台
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本作の「くにこ」とは、まさに向田邦子のこと。 昭和4年(1929年)東京の世田谷区若林に生まれた 向田家の長女の話。 邦子の下の頼りなく影の薄い長男と二人の年下の妹たち。 父親の仕事の関係でたくさんの転居をし、転校を繰り返していた。 向田邦子の脚本には、大いなる父親の存在は欠かせない。 その父親役が、角野卓造。 本作の角野卓造を見て、フランキー堺のことを思い出して仕方がなかった。 向田邦子の傑作ドラマ「あ・うん」に出てくるフランキー堺とダブる。 そして向田邦子は「あ・うん」のフランキー堺(製薬会社のサラリーマン)に 自らの父親像をダブらせていたのだろう。 その「くにこ」が昭和4年に生まれてから、 脚本家として独り立ちするまでを描いたもの。 小学生とは思えない三姉妹が小学生を演じる。 栗田桃子がその「くにこ」役である。 おかっぱでランドセルを背負った「くにこ」は、 子供のころから大人びていたということが何度も繰り返される。 そして、その大人びた雰囲気はどこから来るのだろうか? とも思った。 ものを書くものに特有の観察をするということが 生来備わっていたのだろうか? 人間を観察するというのと子供らしいというのは確かに対極に位置する。 昭和のまだ平和だった頃から、当時の時代状況によって 変化せざるを得ない向田家が描かれる。 戦争によって変わりゆく生活。 鹿児島から高松を経由して東京に戻ってきた向田家は、 戦火の中何とか生きていた。 一番下の子を、ここにいてはいけないだろうからということで疎開に出す。 最初は意気揚々とごはんが食べられると言って出かけて行った三女が 、疎開生活に耐え切れなくなって戻って来た。 そのとき、厳粛で感情を外に出すことがほとんどない父親が、 おいおいと泣きながら三女に謝罪し抱きしめる。 ベーシックな家族の物語が中島敦彦の優れた戯曲によって さらに滋味深いものになる。 もちろん、中島脚本なのでユーモアも忘れない。 自分の年になると父親は威厳を保ちながらも、実は、 不安でしかも家族を守っていかなけらばいけないという使命感を持たねばならないのだという 気持ちに共感する。 それを、自分とキャラが似ている角野卓造が演じているのでさらに。 髪の毛が薄くなってからのところは尚更。 戦争が終わり、くにこは女学校を卒業し、大学に入る。 家族がまた転勤で仙台にいくと言う時、 父親はくにこが入学した女学校を辞めさせ仙台に一緒に行こうといいだす。 が「くにこ」は父親を説得してしまう。 そして奇妙な石屋の貫太郎などが暮らす麻布の下町の親戚の下宿生活を経て、 会社勤めを始める。キャリアを積む女性の登場である。 そういう意味では、向田邦子は先進的な人だった。 最初は小さな出版社勤めをしており、 その後映画関係の出版社の編集の仕事に就く。 角野卓造はその頃浮気をする。娘の「くにこ」も不倫関係にある。 「くにこ」が必死で父親の浮気相手と向き合い、 父親と向き合う姿が合わせ鏡のように「くにこ」の不倫と重なって行く。 中島の戯曲は、人間が生きて行くと一筋縄ではいかない。 シンプルなだけではない。 ということがきちんと描かれている。 鵜山仁演出。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-14 08:04
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F/T10が終わりを迎えた。 エンディングに行われた勅使川原三郎の新作公演。 実際、僕自身本公演をみて、今年のF/T10は終わった。 中ホールが満員の観客で埋まった。 画家の横尾忠則さんの姿が見えた。 勅使河原三郎は年代を問わず広くの方に知られており、 小劇場系の観客でないような人がたくさん集まって来ていた。 勅使河原三郎と若いダンサーたちが舞台でパフォーマンスを繰り返す。 ものすごく激しいビートが利いた音楽に合わせて 身体がまるで痙攣したようにジャンプを繰り返す。 まるでハードディスクレコーディングで繰り返される ドラムンベースのリフに合わせるように身体が動くのである。 コンピュータでリズムを刻むので実際のドラマーが ライブでは出来ないような小刻みな演奏もコンピューターテクノロジーで可能になった。 そのような音に合わせてダンスを踊ることが出来るというのが驚きであり、 その痙攣的な動きが繰り返されることによって、 音とのシンクロでその行為自体がとても不思議なものに見えてくるのである。 このタイトルにある、「揮発するものは何だろう?」と思って見ていた。 勅使川原三郎の毛髪はもはや揮発してしまっている。 僕も人のことは言えない。 しかも、僕自身は勅使川原三郎より10歳も年下である。 完全に揮発してしまうのはいつのことだろうか? 58歳になる勅使河原三郎の動きがシャープで無駄がなく本当に驚いた。 身体能力では明らかに若手のダンサーたちの方が上だろうと思われるのに、 勅使河原三郎が踊ると、そのカリスマ力は周囲の雰囲気さへも変えていく。 勅使川原さんが踊っていると、ただポカーンと口をあけて そのダンスを見ることとなる。 痙攣した身体とともに小刻みにジャンプする。 それはまるで編集で動画のコマをいくつか抜いているんじゃないか? というような効果となって目の前に現れるのだ。 本作は照明や美術も勅使川原本人が行っている、 切れのいいシャープでシンプルな世界。 にしすがもで行われた黒田育世の「あかりのともるかがみのくず」と対照的。 上手(上手)吊るされた薄く透ける素材のカーテンが美しい。 ブラックライトの使用や床がスライドする演出など興味深い試みがいくつも見られた。 勅使川原さんファンの女性は上品で美しい人が多いのも必然なのかもしれない。 と揮発してしまった頭部をさわりながら思った。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-13 08:24
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作:川村毅、演出:倉持裕。 三部からなる、それも能楽・狂言・能楽という 能楽の公演と同じような順番で三作品が並べられた形。 それぞれのタイトルは「春独丸」「俊寛さん」「愛の鼓動」の三作品。 オリジナルの能狂言のタイトルは、「弱法師」「俊寛」「綾の鼓」というものらしい。 それぞれ一言で語れる作品と倉持さんが折り込みに書いていた。 「親に捨てられた子供の話」 「島に取り残された罪人の話」 「女にだまされた男の話」 というもの。これを川村毅が大胆に翻案アレンジし、 語り口の異なる三作品を書きあげた。 その異なるものをある抽象化された現代美術とも言える 舞台セットの上である種の統一感をもって倉持裕が演出をした 。とても密度の濃いバリエーション豊富な2時間だった。 最初は宮崎駿が描く魔女やおばあさんのような人が登場する、 フードをかぶった奥に居るのは久世星佳。 久世さんは変幻自在でどのような役でもこなしてしまうのに感心する。 気の強い恐ろしげなおばあちゃんは 鶴見で身体を売って生計を立てている飲み屋のおかみさんだった。 彼女が捨てた息子を何年もたって迎えに来るというような話。 荒唐無稽な物語が拡がっていく。 印象的なのは岡本健一(息子)がミュージシャンとしてデビューしていったというくだり。 最後にはX-JAPANやGRAYもびっくりの ヴィジュアル系フォークシンガー?みたいなミュージシャンになっていく。 そこに久世星佳が現れる。 桜の花びらが象徴的に描かれる。 全体を通じて舞台美術がこの作品の美意識をある高みに到達させている。 堀尾幸男の手になるそれは、真っ白な空間。 床にはパースを強調するための放射状のラインが引かれている。 立ち上がった奥の壁には真ん中に四角い窓が開いており 漆黒の闇がその奥に拡がっている。 奥の壁は雲のような形とでもいうのだろうか? にカットされておりそのかたちが美しい。 そのカットされた壁には厚さがあり カットされている断面を見ることによってその姿をより強く認識する。 まるくカットされていることも、柔らかさとともに印象深いものを感じた。 左右には橋かがり的な小さな通路が対称にしつらえられている。 また、今回、振り付けに小野寺修二が加わったことで、 この舞台はさらに奥行きが拡がった。 セリフのないところで俳優たちが集団で動きながら様々なイメージを形作っていく。 その時の動き方や身体の形の付け方が印象的であり その優雅さとちょっと外した面白さは小野寺修二の才能によるところが多いだろう。 宮本亜門が横浜の芸術劇場のこけら落とし公演でやる 三島由紀夫の「金閣寺」も振付で小野寺修二が参加するらしい。 宮本亜門がそのようなことをツイッターでつぶやいていた。 振り付けだけでなく喋っていても小野寺さんは面白いというのにとても興味をもった。 1幕で桜の花びらだったのが今度は砂粒になる。 軽いタッチの不条理なコント「俊寛さん」 あのシュールな笑いを川村が書いた! そしてそれに輪をかけるように倉持が演出。 お笑いの感覚的なものは俳優の玉置孝匡と粕谷吉洋の存在が大きかったろう。 休憩後、ベンガルと西田尚美が登場する「愛の鼓動」。 死刑囚の囚人である西田尚美と看守であるベンガル。 死刑制度の是非が問われる今、 死刑制度のことについて「モリのアサガオ」のような 設定のドラマが今後増えてくるだろう。 玉置さんの死刑執行のシーンは印象的だった。 死を前にした西田がベンガルと・・・。 これが三作目の面白いところ。 幽玄な能楽の世界がこうなったか!と驚きとともに、その面白さに感心した。 ▲
by haruharuyama
| 2010-12-13 08:19
| 舞台
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BATIKトライアルが本公演で10回目を迎えた。 1年に1回か2回、この森下スタジオで細々と続けられている。 10回を記念して少し大きな作品「ペンダントイブ」を再演することとなった。 本作品は映画館で上映もされDVDも出ているので 知っているかたも多いだろう。 1階のCスタジオという少し大きなスタジオで上演された。 客席はそれでも百人入るか入らないか? 黒田育世さんが入口で丁寧に挨拶をしてくれる。 10人のBATIKのダンサーたちが所狭しと踊りまくる。 今回、黒田育世は出演しない。 裏方に徹し若いダンサーたちの挑戦を 演出・振付の部分からサポートする。 いつものトライアル公演と違って 豪華なのは音楽の生演奏が入ったこと。 それもBATIKに欠かせない松本じろとスカンクの演奏。 松本じろの何とも言えない繰り返されるフレーズと リリカルなヴォーカルの声色が会場を包む。 音楽は、どんどんと力強くなっていき 大音量の中ダンサーたちはさらに懸命に踊る。 以前、見た、「ペンダントイブ」(@世田谷パブリックシアター)と 空間も劇場も違うのでいきおい出来あがりも違うのが面白い。 そして、こんなに小さな場所で10人のダンサーたちが 懸命に踊っているエネルギーを直接感じられ、 そのエネルギーが身体に沁み込んでいった。 どんな、ダンスか?と言われると難しいのだが百聞は一見にしかず。 U-TUBEの映像で検索して見るとわかる。 美しくも迫力がある女の子の魂の叫びのダンス? 振付の動きのシャープさにいつも驚かされる。 しかも、ダンサーたちがそれを実現出来ているのが凄い。 後半、みなが白い服になって一斉に踊りだすシーンの迫力は素晴らしい。 ペンダントイブについての言葉が書かれたものを引用する。 原っぱへの道すがら極上の傷運びましょう 嫌いになるまで転がりましょう 今夜私と踊りましょう 罪は深くてダンスは数珠なり そこの子 根こそぎ持ってきてちょうだい ▲
by haruharuyama
| 2010-12-12 11:26
| 舞台
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