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副題は、「コミュニケーション能力とは何か」。 著者の平田オリザは現在 大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターの教授である。 当時、大阪大学にいた鷲田清一教授から誘いを受けたそうである。 鷲田はその後、大阪大学の学長になる。 文系出身は珍しく、大阪大学が新たな方向へ 進み始めたと思えるような出来事だった。 金子みすずの詩のなかに 「みんなちがって、みんないい」 というものがあるが平田は現実的には 「みんなちがってたいへんだ!」 と言う。多文化共生社会とはそういうものである!と。 企業や大学でもこれからは様々な人が集まって創造的な作業を行うと、 新しい発想などが生まれやすくなると言われている。 多様性が重要。 人種や民族などが入り混じり文化や言語が違う人たち同士が 何とかコミュニケーションを取りながらやっていく、 やっていかなければならない時代がもうすぐそこにやって来ている。 その時に、そこに集まったひとたちがみんなちがっているのは当然である。 ということは、暗黙知みたいなものはそこにはなく 「わかりあえない」 という前提でコミュニケーションを取っていかなければならない。 では、どうするか? 平田オリザは今まで無数にやってきたコミュニケーション教育の 数々の事例を基にわかりやすく解き明かしてくれる。 その実際の現場を一部捉えているのが、 想田和弘監督のドキュメンタリー映画「演劇2」である。 平田オリザは呼ばれたらどこへでも行く。 演劇の普及、芸術の普及、演劇を通じた教育の普及のために。 平田オリザが三省堂の国語の教科書に演劇教育の 戯曲を掲載してずいぶんの時間が経った。 現場の教師はどのように教えていいのかわからない、 そこに平田が訪ねて行き、実際に子どもたちに 戯曲を作らせ自ら演じさせる。 演劇という人類最大の「遊び」の原点を見るようである。 鳥取の中学校で行われた実際の授業が「演劇2」で取り上げられている。 外に開かれた場所で、どのように他者と接していくのか、 他者が介在することによって話し言葉はどう変化するのか? というようなことが詳細に語られる。 こんなに平易な言葉で、ふかいことを語ってくれている本はなかなかないのでは? いままで「みんなといっしょがいいんだよ」という日本社会でよかったものが 変化し始めている。 そういう時代だからこそ、コミュニケーションが必要であり、 同時に、コミュニケーションを取りやすい場を作るという能力も求められる。 ここで取り上げられた「くりかえしの文法」牧野成一著(@大修館書店)に ついて調べたがわからない。検索しても書籍が出てこない。(涙) 最後に、本書で一番印象に残った箇所を引用する。 私は自分が担当する学生には論理的に喋る能力を身につけるよりも、 論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる 人間になってもらいたいと願っている。 強いリーダーシップへの疑義と、その危険性については、 第5章で詳しく述べた。 どちらのリーダーシップが社会を幸福にするかは、私にはわからない。 しかし私は、弱者のコンテクストを理解する能力を持ったリーダーを望む。 また、そのような学生を育てたいと強く願う。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-27 09:44
| 読書
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このシリーズも本作で三作目。 「マクベス」「リア王」と続いて、 ローマ時代の政争を扱ったシェイクスピア劇。 アフタートークで作・演出の中屋敷法仁が言っていたのだが、 この時期(2013年2月)はまだ、民主党は解散総選挙を 言いだせずにいると思っていたのに、読み誤ったと。 ローマ時代には、一瞬の裏切りや代表者の死で 政権が大きく変わる。 いまの日本の状況にも似たこの劇を、 いまだからこそ上演したかったのだと。 結果として、現実の方が早かった。 12月に民主党政権は解散総選挙を行い 結果、自民党政権となり安部首相が「アベノミクス」という おまじないをひっさげて今、政権を運営している。 民主党の議員についていた多くの秘書たちは 廃業や転職を余儀なくされ、 逆に自民党の新たな議員は新しい秘書などを雇うことになる。 ![]() 一回の政権交代でこれだけ多くの人が動き人生が左右される。 それはローマ時代から延々と繰り返されていたんだな ということを中屋敷は本作を通じて伝えたかった。 このシリーズはいつも女優だけのキャストで上演される。 シーザーもアントニーもブルータスも。 「ブルータスおまえもか!」 という台詞はあまりにも有名。 本作で中屋敷は この時代設定を幕末から明治にかけての日本に設定している。 というわけで台詞も「おまえさんもかい、ブルータス」となっている。 袴姿の竜馬みたいな姿の深谷由梨香がブルータスを演じる。 乃木大将みたいな明治時代の軍人の衣装を着ているのが シーザー(川上ジュリア)。 こういう時代だからか、歌舞伎や大衆演劇的な言葉遣いが多用される。 七五調の調子のいい台詞はまさに歌舞伎調。 見栄を切るようなポーズも随所に挿入され、 見せ場のクライマックスへと進んでいく。 幕末を舞台にした政権交代を描いたすべて女優の演じる時代劇。 これが本作「発情ジュリアス・シーザー」! テキストは、シェイクスピアの原作に忠実。 3月3日まで! ▲
by haruharuyama
| 2013-02-24 08:03
| 舞台
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これは、人間の品性というものを問うた映画だな。 と思った。本当の「品性」というのはどこにあるのか? 高い品性を保ち続けるということが、 人間が成長することであるのかも知れないな。と思った。 この老夫婦は現実を全部受け入れながら、 東京で家族や友人たちと会う。 本映画は言わずと知れた小津安二郎の名作 「東京物語」にささげる映画である。 大きな筋立ては変わらない。 そして山田洋次監督は意識的に脚本を「東京物語」当時の 話し言葉を使っているようにも見えた。 現代の話なのでその言葉に違和感を持つかも知れないが、 それが山田洋次の考える「品性」のひとつじゃないかな?とも思った。 なくなりつつある風景や人情そして言葉。 そうしたものを愛おしく想い、 いつまでもそれに向き合っていこうとする山田洋次監督の決意を感じる。 そして1950年代に小津安二郎監督も同じことを想い、 そういう気持ちで「東京物語」を作ったんだな!ということが思い出される。 笠智衆と東山千栄子が 「東京家族」では、橋爪功と吉行和子に変わる。 この老夫婦を見つめるまなざしがいい。 山田洋次監督が自らの人生とダブらせるようにして彼らを見つめている。 突然の「死」がいつきてもおかしくないと思う年齢。 自分もその年齢に差し掛かっていると最近良く思うようになった。 明日は会えないかもしれないと思って人に向き合うことこそが 本当の「品性」につながるのではないだろうか? 次男役の妻夫木聡とその彼女、蒼井優のカップルがいい。 他の兄弟(西村雅彦・中島朋子)との対比構造が描かれ、 自分はどの兄弟みたいなのか?てなことも考える。 日本に暮らすわたしたちなら思い当たることがたくさんある シーンや風景がたくさん詰まっている。 山田洋次の,311以降の日本を見つめた 新たな映画として 本作はとても素敵な佳品となった。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-22 08:12
| 映画
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毎年のカレンダー。 これはイラストレーターの宮崎祐治さんの手になるもの。 毎年、送っていただいている映画スターのイラストが 書かれた卓上カレンダー。 ![]() いまは、オフィスのPCの横にある。 宮崎さんは「テレコムジャパン」の先輩。 キネマ旬報でイラストエッセイみたいなものを 随分長く連載されている。 宮崎さんの原画を見たことがあるが 大きな紙にきちんと描かれている。 ああ、こんなに大きく描くんだ! と驚いたことがある。 そう言えば、昔、イマジカのカレンダーは 毎年、和田誠さんの映画カレンダーだった。 そして、こちらは同じくイラストレーター 柏木ユキさんのカレンダー。 ![]() 毎年、柏木さんのカレンダーをトイレに 貼らせていただいている。 この場所がオフィスとともに 一番カレンダーを見る。 柏木さんは、僕が以前住んでいた、 新高円寺と南阿佐ヶ谷の間に住んでいる。 以前BS12チャンネルで番組を作ったとき 柏木さんのイラストを番組のオープニング映像で 使わせてもらった。 「がんばれNPO”熱血地球人”」というもの。 ▲
by haruharuyama
| 2013-02-21 08:31
| 日々の記録
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副題は「ドキュメンタリーは『虚構』を映せるか?」。 昨年見た映画の中でダントツに印象に残った作品が本書の著者、 想田和弘が作ったドキュメンタリー映画「演劇1」&「演劇2」だった。 本書は、その映画を補完しさらに強化する。 そういう意味ではとても良く出来た、豪華パンフレットでもあり、 もちろん単体の書籍としても楽しめるものになっている。 ![]() この映画をどうして撮るようになったかという動機からはじまって、 撮影中の想田さんの考えていることがわかりやすい文章で書かれている。 副題の『虚構』を映せるか? はまさにこのドキュメンタリー映画を撮影しながら想田監督が 考え続けて来たことである。 それは映画にもたびたび登場する。 人間はいくつもの「仮面」をもってその役割を演じていると平田オリザは語る。 青年団の平田オリザ自身がまさにたくさんの仮面を持って行動している人。 劇作家・演出家・大学教授・プロデューサー・青年団の経営者・演劇教育者 ・芸術を世間に広める活動家、などなど。 そしていろんなシチュエーションで平田はそれを演じる。 想田はカメラをまったく意識しないで行動する平田に違和感を持ちながらも、 カメラを回し続ける。 そうしているうちにどれが本当でどれが演技でどれが本音なのかが まったくわからなくなってしまうパラドックスに陥る。 その想田監督の気持ちがこの 「ドキュメンタリーは『虚構』を映せるか?」 という言葉に集約される。 本書は、その制作の過程が克明に描かれている。 本書は大きく2部構成となっており 後半は、「宇多丸(ライムスター)」という過激な 映画評論をするミュージシャンとの対話。 青年団の技術スタッフである、舞台照明の岩城保と舞台美術の杉山至との鼎談。 平田オリザ本人との対談。 青年団の俳優たちとの座談。 最後に、チェルフィッチュの岡田利規との対談という 演劇・青年団ファンならそれだけで大喜びの コンテンツが収録されている。 ドキュメンタリーと演劇についてここまで考察した本は 他にないのでは? あとがきを読むと岩波書店の編集者、田中朋子さんの 熱意があってこそのものなのかも知れないと思った。 田中さんは想田監督と東大の同級生だったことがあとでわかったそうだ。 田中さんは「全貌フレデリック・ワイズマン」という 貴重な本を世に出した人でもあることをここで知った。 多くの人の熱意が本書を作り、その熱意が確実に伝わって来るものとなっている。 ドキュメンタリーファン、演劇ファン(特に「青年団」系)は必読の書。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-19 08:04
| 読書
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山村修は(狐)というペンネームで 長く「日刊ゲンダイ」の書評記事を20年余り連載していた。 本書を読んでみようと思ったのは、 ブログ「中山幸雄のデジタルノート」 そこで、中山さんが(狐)が書いた書籍をいくつか取り上げられており、 興味をもち、たまたま本書を借りることとなった。 「遅読のすすめ」とは珍しい。 多くのものは「速読」について書かれている。 1ページを数秒で読むみたいなことがそこには書かれている。 それは「読書」ではないだろう!と山村修は説く。 そうだろうなあ!と思う。 情報を素早く得るということに関しては 確かに速読は有効かもしれない。 立花隆や福田和也はそれも読書という言葉で片付けてしまうから、 山村が反論するのである。 彼らの読書は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。 山村は、そこには 「読書の愉楽」 みたいなものはないと言う。 ひとつひとつ丹念に言葉を拾い世界観を感じることが 作者にとっても本望ではないだろうか? 読む時間と文章を紡ぐ時間はまったく違う。 1時間かけて書いた文章でも 読むのは数分あれば出来るだろう。 手書きの時代にはもっと時間をかけて 書かれていたんじゃないだろうか? それを数分で読むことで消費してしまうことのもったいなさを 山村は本書で説いているのだ。 高野文子の漫画「黄色い本」について取り上げられている。 高校を卒業したら紡績工場で働くことになっている 地方の女子高校生が学生最後の思い出に マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を読みふけるというもの。 この漫画は読書の楽しみを描いた傑作であると思う。 作者の高野文子がそのような人だったんだろう。 とはいえ、山村修の言う「遅読」は1週間に1冊のペースで本を読むというもの。 月曜日に読み始めて週末に読み終える。 このペースが毎日続くとその量は圧倒的になる。 毎週、「日刊ゲンダイ」に書評記事を連載されていたのだから 実際はもっと読まれていたのに違いない。 生活の中に読書があるという生き方。 それが、本書の言う本当の意味での「遅読」ではないだろうか? ちなみに本書によれば吉田健一や小林秀雄も本を読むのが 遅かったそうである。 1週間に1冊のペースも維持できていない自分は「超遅読」とでもいうのだろうか? ところで、学生時代、本を読むということの楽しみを実感した経験がある。 大学2年生の夏休み。祇園祭の頃。 京都の「駸々堂書店」で村上春樹の「風の歌を聴け」を購入して、 夕方、自宅に戻り、ゆっくりとしかし一気に読み終えた。 夕方直前から日が暮れて暫くの時間。 あの時の、読書以外のことを何も考えずに活字を追い 「ぼくたちは朝日新聞の上でセックスをした」というような 言葉を追いかけていた瞬間を思い出し、嬉しくなった。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-17 07:00
| 読書
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今年で16回目を迎える文化庁メディア芸術祭、 昨年と比べて予算が少なくなったのか 展示会場が小さくなっていた。 その代わり、六本木ミッドタウン、スーパーデラックス、 そしてシネマート六本木で 上映や様々なトークショウなどが行われる。 ![]() 初日から新国立美術館は大変なにぎわい。 今年、残念だったのは審査委員推薦作品の展示が あまり行われていなかったこと。 すっきりとシンプルに大賞、優秀賞、新人賞を展示してある。 審査委員推薦作品がダーッと展示してあると その物量に圧倒され何時間いても飽きないのに! 予算の関係か?運営側の意志なのか? とにかく残念だった。 入口で簡単なパンフレットをもらい、 アート部門、エンターテイメント部門、マンガ部門、 そしてアニメーション部門という四部門の受賞作品を見る。 見るだけで1時間半はかかるので、ゆっくり見たい人は2時間は見ておいたほうがいい。 アート部門で印象に残った作品は「欲望のコード」 三上晴子のインタラクティブアートと、 澤村ちひろの「Immersive Room」という プロジェクションマッピングとアニメーションが合体した作品。 大賞の「Pendulum Choir」は そのパフォーマンスの映像だけではいまいち、その面白さが見えなかった。 音楽とパフォーマーの身体の動きがシンクロする。 一番、面白かったのがエンターテイメント部門だった。 ![]() 大賞の「Perfume ”Global Site Project”」はまさに圧巻。 パフュームというブランドをクリエイターたちがよってたかって 表現する。そこには映像作家、音楽家、振付師、WEB制作者、 CGアニメーターなど様々な最高の才能が自由にパフュームを表現する。 あの3人の生身の女の子たちが出ないのに その世界観が完璧に表現されているのが凄い! たくさんのi-padとHDモニターで再生された展示環境も素晴らしかった。 ![]() ![]() ![]() 美術館にはラジオ番組のディレクターが来ており キャスターの方がインタビューをしていた。 そうしたライブ感もいい。 そして、この展示会は無料でしかも、撮影がほぼ自由というのも面白い。 こうして開かれた展示はさらに開かれたものになるだろう。 プレイステーションVITAのゲーム「Gravity Daze」も興味深い。 倉田稔の作ったハイスイノナサのPV「地下鉄の動態」は、 早くも東京メトロのCMでそれが制作されている。 ![]() またCMディレクター出身の三木俊一郎の映像作品「あさっての森」には 多くの人が集まっていた。 シュールで、Hで奇妙な独特の世界観をレベルの高いVFXとCG、 造形などで表現しており、日常がどこか歪んでいる世界が丁寧に描かれていた。 ![]() また、人が乗って実際に操縦できるロボットのプロジェクトや、 FBの「いいね!」ボタンを押すためのアプリ、 そして、 放り投げるゴミの位置を察知して自分で動くゴミ箱など、 ばかばかしくも楽しい作品が満載のエンターテイメント部門だった。 ![]() 漫画部門は今回はフランスの作品が大賞を受賞! アニメーション部門の大賞は大友克洋が初めて挑んだ 時代劇短編アニメーション「火要鎮(ひのようじん)」は 素晴らしい出来栄えだった! ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-15 08:08
| アート
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現代美術家の会田誠を初めて認識したのは 美術手帖に掲載されていた1枚の絵だった。 日本画的な描線がはっきりとした絵画は まるで漫画のようでもあり現代の浮世絵のようでもある。 ![]() ウルトラマンに出てくる 巨大になったフジ隊員が キングギドラに犯されているというもの。 これを見て驚いた、こ、こ、これはアンモラルでありながらも 刺激的で見るものをいつまでも釘付けにする強さを持っている。 その後も会田誠は作風を変え続け、 何年か前の横浜トリエンナーレでは 自ら「オサマビンラディン」に扮したビデオを製作したものが流されていた。 ![]() 毎回手法が変わり、ありとあらゆる手法を試して、 次はまったく新たなことを始める。 芸術家とは「破壊と創造」を繰り返す人だ! と言われるが会田誠はまさにそれをやり続けている人、 成功とか性交とか失敗とかうんことかそんなものはどうでもよく、 すべてのものが表現の対象になり何ものをも束縛されないものが 会田の根本にある。 先日、新聞記事で会田誠展に不快感を感じる作品がいくつかあるので 何とかならないか?と市民団体から抗議があったと書かれていた。 それに対して森美術館の館長は、そういった作品も含めて すべての作品を見ることによって会田誠を知ることが出来るのであるから、 何ともなりませんです!というようなコメントを発表していた。 そこで問題になった作品群は、その部屋に入る前に注意書きが書かれており、 こうしたものを不快に感じる方はご覧にならなければ というようなことが記してある。 見終わって、館長の言葉に納得し、 あの作品群の持つ強さとあれを会田が書かずにはいられない ということにとても興味を持った。 倫理とかそういうものが芸術の表現を縛るのなら それを解き放とうというのが芸術の基本。 問題になったのは四肢の手と足を切り落とされた少女が 犬のようになって首輪をつけられたもの。 手足には包帯が巻かれており痛々しい。 犬になった少女はあどけなく、そのあどけなさが犬の持つ無邪気さと通じる。 そんな作品である。 同じ部屋にあった、日米の太平洋戦争をモチーフにした 漫画「ミュータント花子」も凄かった。 日本の若い男女が米国の軍人たちと戦うというもの。 荒唐無稽さの中に、ここには本当の事実が書かれているのでは? という気にもなった。そういった事実が記されないまま 葬られたのではないか?ということに会田は改めて光をあてる。 戦争とはこういうもんだよ!ということとともに 荒唐無稽なギャグが盛り込まれたものだった。 それ以外にも福島の原発事故を扱ったもの、 標語ポスターの課題をパロディにしたもの、 巨大なミキサーに入っている大量の裸の少女たち。 ミキサーの下の分分は血の海となっている。 エロとグロとナンセンスの世界を究極まで突きつめた幼児性! とでもいうのだろうか? それこそが会田誠なのだ! 一度見ると忘れられなくなる展覧会。3月31日まで。 ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-12 08:31
| アート
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副題は、ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日、とある。 演出は行定勲。原作 ロナルド・ハーウッド。 正統で見ごたえのある翻訳劇だった。 ![]() ベルリンフィルは世界で1番のレベルの演奏家たちが揃っており、 下手な指揮者がやってきて指揮などをしようものなら、 演奏家たちが勝手に演奏をしてしまう、 というくらい優秀な演奏家集団であると聞いた。 そしてベルリンフィルをそのレベルに押し上げたのが 指揮者のフルトヴェングラーでありカラヤンである、 と聞いたことがある。 本作はその指揮者、フルトヴェングラーに焦点をあてた演劇である。 終戦後、ナチスの人たちの行った罪を追及するために 連合国たちは戦争犯罪者と思われる人を取り調べた。 ニュルンベルグ裁判は有名である。 フルトヴェングラーはベルリンで生まれ育ち指揮者となり、活躍していた。 1933年にヒトラーがドイツの首相になる。 ヒトラーはフルトヴェングラーを寵愛する。 国家宣伝担当大臣のゲッペルスは、 彼をベルリンフィルの指揮者として重用する。 戦争が終了後、アメリカ軍の少佐(筧利夫)が彼を尋問する。 威厳のあるフルトヴェングラー役は平幹二朗。今年御年80歳! 声の元気なこと立ち姿の威厳のあることに驚いた! ヒトラーはクラッシック音楽を愛し、今年生誕200年を迎える ワーグナーなどもヒトラーからとても愛された作曲家であったと聞く。 映画監督のレニ・リーフェンシュタールも同様。 劇中に映像が流される。ナチスの党大会を記録したレニの映画「意志の勝利」 そしてユダヤ人の収容所の様子を記録した映像も! あれはアランレネの「夜と霧」だろうか? 少佐がフルトヴェングラーを取り調べる前に証言する人たちがいる。 第2バイオリン奏者で元ナチ党員の小林隆と 夫がピアニストだった女性タマーラ(小島聖)。 彼らは口々にフルトヴェングラーには罪がないと証言する。 が、少佐は簡単には彼らの話を信じない。 徹底的にフルトヴェングラーを追い詰める。 彼はヒトラーに利用されナチズムの発展に貢献した! ということを立証しようとする。 その丁丁発止のやりとりが緊張感を持って描かれる。 フルトヴェングラーは政治と芸術は別ものであるという 信念を持ちながら生きて来た。 その信念は揺らぐことなく続いて来ていたのだが、 国家は人の信念を乗り越えることがある。 不意に襲ってくる自然災害のように大きなチカラで突然。 結果は後になってわかるのだが、そのときに為す術はないのだろう! 自身がそこにいることだけで犯してしまった罪を知り フルトヴェングラーはそれを一生涯背負い続けていかなければならなくなる。 背中に運命を背負って彼はオーケストラの指揮をやり続ける。 少佐の取り調べ室で一緒に働いている、福田沙紀と鈴木亮平は フルトヴェングラーのファン。 彼らは敬意を持ってマエストロに接する。 少佐(筧利夫)はまったく逆の態度を取り、その対比が面白い。 芸術は人の気持ちを動かし人を動かす。 だからヒトラーやゲッペルスはそのことを利用したというのも事実である。 フルトヴェングラーは結局、そのことに自覚的だったのか、そうでなかったのか? それは彼の戦争責任となるのか? そういった「?」「?」「?」が無数に現れては消える舞台だった。 11日まで、その後、名古屋、大阪などを巡回。 ▲
by haruharuyama
| 2013-02-11 06:41
| 舞台
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先日、読んだ「続・暴力団」の第1弾。 本書は現在の「暴力団」についてとてもわかりやすく書かれてている。 映画「アウトレイジ」の世界は こういうことなんだということが良く分かる。 警察組織に対しても辛らつな意見をストレートに述べている。 溝口さんは、 勇気を持ってジャーナリストとして世間と向き合っている。 ジャーナリストは独立独歩の気風がないとやっていけないと思った。 そしてその気概がジャーナリスト魂を強くする。 あとがきで書かれていたのだが、 以前、溝口敦さんが山口組五代目組長・渡辺芳則氏についての 本を出そうとしたとき 組関係の人から溝口さんに連絡があり、 出版をやめてくれないか?と言われたそうである。 しかし、溝口さんはそれを断り予定通り本を出版し、 その3カ月後、左の背中を組員に刺されたそうである。 そんなことがあっても溝口さんは、 こうしてまた「暴力団」の本を書いている。 本書の中で 警察には悪い人もいるけどいい人もいる。 しかし、暴力団には悪い人しかいない。 これが現実であり本質だろう。 東映任侠ヤクザ映画の肩で風を切りながらも 義理と人情を大切にし堅気には手を出さない 渡世稼業なんていまでは、嘘っぱちである。 本書を読んでいると「暴力団」という仕組み自体が 構造不況業種になっているということがわかる。 法律や条例がその後押しをし、シノギを得て稼ぐという スタイルが容認されない世の中になってきている。 これはグローバリズムとも無縁ではない。 談合とか袖の下みたいなものがなくなった社会には グレイゾーンもなくなり、その部分でやりくりしていた人たちは 存在が出来なくなる。 不法行為はさらに水面下に潜るようになり、 組織ぐるみで看板を掲げて営業することは難しくなる。 暴対法に抵触しない、溝口さんが言うところの「半グレ」という 元暴走族だったような組員でない人たちが 新たなシノギを見つけて暗躍している。 ネットを使った様々なビジネスなどがそれにあたる。 大量の迷惑メールとか出会い系サイトなどは 彼らが運営運用しているのか? 今後、アンダーグラウンドの世界はなくなるのか? 水面下に潜って見えなくなるだけなのか? ![]() ▲
by haruharuyama
| 2013-02-07 09:59
| 読書
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